「あ、皆守クン!」
彼が教室にいるだけで、明日香はどうしてか嬉しくなってしまう。思えば入学時から同じクラスだったはずなのに、三年生になるまで誕生日も血液型も、好きな色やものさえも知らなかったのは彼だけだったな、と、今でも時々思うのだ。

『紫と赤茶と、夕暮れと』甲太郎&明日香

 「次、国語だから呼びに行こうと思ってたんだ」
 満面の笑みで、明日香は甲太郎の寝ぼけた顔を覗き込む。身長にそこまで大きな差は無いものの、少し腰を屈めた彼女はぱっちりと開いた瞳で、眠たげな甲太郎の目の奥をじっと覗き込む。
 甲太郎はそんな彼女を少しばかり苦手としていたが、明日香の方は彼を気に入っていた。時々香るラベンダーの香り、常に眠たそうな顔、そして…ほとんど明かされていなかった、本人のプロフィール。そう言った謎めいた様子、さながら説明の足りない重要人物的なミステリアスさが、明日香を惹き付けていた。
 「あー…だりぃ…」
 いつもの態度、いつもの様子。今まで常に何かを秘匿しているイメージだった彼の秘密が少しずつ明かされていくことで、明日香にも何が甲太郎の「いつも」なのかが分かってきていた。
 保健室に頭痛がすると言って化学の授業を逃れていた彼から、今日はラベンダーの香りがしない。いつもラベンダーの香りのする甲太郎はどこか違う場所にいる様で、さしもの明日香も話し掛けるのを一瞬躊躇する。無論一瞬だが、それでも女の勘、という奴が告げて来る事を無視は出来ない。甲太郎には大きな秘密がある。今までのどんなものより大きな、途方も無い秘密。
 「ほら、ヒナ先生来るんだから教科書出してー」
 明日香の手で鞄からごそりと取り出される教科書、ノート、ペンケース。甲太郎はそれを咎めなかった、というより、手間が省けたという顔で軽く肩を竦めるだけだった。鞄の中身は一応学生らしい所持品ではある。ペンケースが紫色なのを見て、明日香がくす、と小さく笑うと、甲太郎は何だよ、と眉を寄せて明日香を睨んだ。
 なんでもない、と一言言ってから、明日香はちらりと少し離れた欧嗣の席を見やった。今は席を離れていて、その場には机の横に行儀良く掛かった鞄と、机の上に並べられた教科書とノート、そしてやはりペンケースが置かれていた。それだけ見ればどこにでもいる平凡な生徒だというのに、彼の鞄には時々とんでもないものが入っている事がある。例えば、明らかに校則どころか法律に反している様な、拳銃とか刃物とか、そういった戦う為のものが。しかし表向きが非常に普通 の、それこそ模範的生徒なので、誰もそんな物が鞄に忍んでいるとは思いもしない。明日香は、彼はまるでスパイみたいで、面 白くて良い友達だと思っている。
 反面、持ち物は模範生だと言うのに、授業となると寝ているか逃げ出すかの二択の甲太郎も、良い友達だと思っている。どこぞの保護者の集まりに所属してお高く止まったタイプの両親を持つ様な子は絶対に近付かないだろうが、恐らく彼も近付かないに違いない。それ以前に、欧嗣が転向して来るまでは、クラスの誰かと彼が喋っている所を見た事が無かった。
 再びだるい、と口にする甲太郎、どこからか焦って教室に戻った欧嗣の姿。接点の乏しい二人が、夜な夜な墓を探り、その下の広大な遺跡を巡る友だと知っているのは極少ない人間だけだ。もちろん、明日香もそこに含まれるのだが。

 「はい、では昨日の続きで183ページを開いて下さーい」
 雛川の声を聞きながら、明日香はちらりと甲太郎の方を伺った。欠伸をし、口の小さな動きから察するに「だるい」と言ったのだろうが、それでも素直に教科書を開いている。欧嗣を伺えば、やはり教科書を開いてはいるものの、既に開かれたノートに何やら書き込んでいる。毎回遺跡に潜った時はレポートを付けて、次回以降の探索に備えるのだと彼は言う。そのノート作りが授業と並行して行なわれているのだ。
 雛川の授業は皆に好かれている、故に喋るものもほとんどなく、静かに授業は進んでいった。

 「皆守クン」
 授業終了後をかなり過ぎ、これから下校という時に、まだ眠っていた甲太郎を起こしたのは明日香だった。彼女は、甲太郎はいつもどうして下校ギリギリまで寝ているのだろう、と疑問に思っている。他の寝ている生徒すら、下校の時間になれば途端に起きて大急ぎで帰っていくというのに。
 「一緒に帰ろ、欧嗣クンは図書室寄ってから帰るって」
 暗に先に帰ってほしいと言われた事を告げる。時折、彼は先程作成していたようなレポートが行き詰まると、適切に説明出来る資料を求めて図書室に行く事があった。今日は途中まで資料探しを手伝っていたが、皆守を起こしてそろそろ帰ろうという彼女の言葉に、彼は今日はまだ、と言った。明日香に七瀬を困らせないように言われると、頭を掻いて困った様に笑う。実際彼は資料探しとなると時間を忘れ、七瀬に散々怒られた事があった。事実、一度下校時間を大きく過ぎてから、七瀬が不機嫌な顔で寮に帰ってきた事があったのは明日香の記憶にも新しい。その時は帰りが遅かったことを生徒会に見つかり咎められることこそなかったものの、生徒会に目を付けられた者の有り様を知れば怒りたくなるのも当然と言えた。
 「ああ…ちょっと待ってろ」
 珍しく、一度目を擦るとすぐに立ち上がって伸びをする。普段はそこに大欠伸と、アロマを加えるアクションがある為に、明日香はもともと円い目をさらに円くした。
 「皆守クン、アロマは?」
 ん、と結んだ唇がふはぁ、という息と共に開かれ、伸びをしていた身体から力が抜ける。
 「ああ…ちょっと、オイルを切らしてな」
 明日追加が届く、と、普段なら明日香が聞かなければ答えない事まで言って来る。彼女が首を傾げれば、それを見ない内に鞄を手に教室を出た。十月も終り、窓の外は夕焼けが残した深い藍色の空が広がっている。明日香は窓の外の暗い空を見てから、雪でも降るのだろうかと一人考え込む。
 「八千穂、下校時刻過ぎるぞ」
 「あ、ま、待って皆守クン!」
 普段よりも薄いラベンダーの香りを追って、上履きの音が廊下に響いた。

 テニスコートには人が居らず、運動部の生徒達が少しだけ練習に残っていた。最終の授業から一時間半、授業の終わりが早い日でも二時間半ほどしか使えない運動場だ、使える時は使いたいのだろう。それを横目に、クラス一番の元気者とクラス一番の怠け者が歩いている。明日香が誰と居ても不思議はないと周囲は思うだろうが、逆に皆守が誰かといるのは不思議なのだろう。たまたますれ違う生徒がいると、少し後ろで立ち止まった気配がするのだ。
 「八千穂」
 いつもと違う皆守に話し掛けられず、いつもとは違って黙っていた明日香に、甲太郎の方から声が掛かった。
 「え、あっ。 何?」
 いつもはあまり使わない頭で考え込みすぎたのかもしれない。反応が遅れた上に不自然に取り乱してしまったことを、彼女は自分でも認識していた。
 しかし、皆守は気にした様子もなく、先を続ける。
 「お前、夢って見るか」
 彼らしくない、らしくなさが最高潮に達した。
 「どうしたの、まさか皆守クン、拾い食いでもしたの!?」
 寮へ続く道のコンクリートを踏んだ瞬間に、目を真ん丸にして少し甲太郎を見上げる明日香。それに対して違ぇ、と眉を寄せる。そして胸ポケットに手を入れてから…ふと、思い出した様にその手を下げる。そのまま、ズボンの左ポケットを探ると、底の方に申し訳程度に残った紫色の液体が入った小瓶をつまみ出す。小瓶の中身が歩く振動で頼りなげに震えるのを見、胸ポケットにそれをしまうと、甲太郎は少しだけ遠くを見ている様な顔をした。
 「ちょっと前に、取手がな」

 珍しい事は続く様で。
 甲太郎は結局男女の寮が分かれる道で立ち止まった。学校から寮までさほど長くない間、鎌治が夢を見るか訊ねてきたのだということを話し、それから、自分はよく予知夢みたいなものを見るのだと話す。あえて欧嗣のことと自分の夢の内容を省き、未来の事を見るなんて気持ち悪いな、と自嘲気味に吐き出した。明日香がそんなことない、と言う前に、お前は、という言葉で遮られる。
 「先々の事とか、夢にみたりするのか?」
 そもそも、こうして明日香に何かを訊ねて来る事自体が珍しい。今日は色々な意味で先が見えない日だ、と彼女はその意外性を思って少し笑う。なんだよ、とその笑顔を見て、皆守は三度眉をしかめる。
 「あたしはね、テニスのトッププレイヤーになる夢を見るよ」
 将来の夢だもん、と自慢げに話す。皆守はそれを頷きも貶しもせずに聞いていた。
 「せっかくここまで来たんだし、良い成績残せてるし! …夢に見るくらい、なりたいんだ。その夢を現実にしたいから、諦めないで、やっていこうって思えるよ」
 なんかちょっと違うかな、と照れ笑いをする彼女に、いや、と皆守は足元まで視線を落とす。見える程に近い夢を持てる、明日香。その存在が眩しく思え、顔を上げていられなかった。自問自答は終らなかった。
 明日香は黙り込んだ甲太郎に近付く。どういう顔をしているかは分からなかった。
 「ね、夕飯カレーなんだけど、お裾分けしようか」
 今日はチキンカレー、力作なんだ、と力を込めた声が聞こえる。目を輝かせている彼女に、カレー、と好物を出された事でようやく顔を合わせた。現金だと自分を笑う。
 「手間だろ、俺そっち潜り込む」
 普段なら「持ってきてくれ」という所だと彼女は思う。明日香は首を横に振り、持ってくよ、と微笑んだ。
 「皆守クン、元気ないみたいだし。 あ、アタシお菓子とかも持っていくね! 取手クンと九龍クンも皆守クンの部屋に呼んでおいて! ご飯炊いてある?」
 矢継ぎ早に言葉を紡ぐ明日香に、甲太郎は溜め息と一緒に吹き出した。え、何、何で笑うの? と疑問顔の明日香に、いや、と首を横にだけ振る。
 「生徒会に見つかるなよ」
 その言葉を空々しいな、と心の中で思いながら告げると、うん、と彼女は素直に頷く。
 「また後でね」
 手を振り走り出す明日香を、軽く手をひらつかせて見送り、彼も寮へ戻った。

 カレーの鍋にラップで蓋をし、自分用のスプーンと皿をその上に乗せ、買い置きのお菓子をデザート代わりにと、買い物をした時に貰ったビニール袋に詰める。生徒会と巡回の人間に見つからないよう、隣の部屋の子に口裏合わせを頼み、階段を降りて隣の寮へ向かう。
 その間中、皆守の様子がおかしかった事ばかり考えてしまっていた。何故あんな事を聞いてきたのだろうか。悪い夢でも見たのだろうか、それとも少し先にある進路希望提出のことで何かあったのか。考えても分かる訳はない、と思っても、自分でもあまりよくないと思っている脳をフル回転させて考える。考え過ぎて皆守の部屋を過ぎそうになり、慌てて戻ってドアをノックした。
 「あ、八千穂さん」
 顔を覗かせたのは鎌治だった。こんばんは、と元気な挨拶に、うん、今晩和、と静かに答える。

 ま、いっか。

 そういう言葉で片付けて、明日香は早速鍋をコンロに掛けた。皆守は黙ってはいるが早く、と気配で急かす。欧嗣はまだ来ていなかった。

 カレーの匂いが漂う。その暖かさが部屋を満たす。その空気を掻き消す空気の動きがやってくるまで、あと五分もなかった。

 

2006/05/06
先輩が漫画を描いてくれて嬉しさあまり九龍更新(笑)
欧嗣君のヴィジュアルが見えますよ、なんかイイ感じ☆
微妙にギクシャクした感じの明日香と甲太郎ですが、
そうやって喧嘩まで行かなくても意見の違いとか状況の違いを
お互いにどうしていこう、と思って対処して行く事が
高校生くらいになると求められてるよなとか。
そういうお話にしたかったってコトです。
次は明日香と欧嗣のお話。

先輩のサイトはコチラ☆(リンクにある夢園さんです)
素敵な九龍がいっぱいですので是非!可愛いのーほんわかしてて!