きっと目覚めた時、全てが煩わしいに違いない。
 そう思ったことだけ憶えていた。

Deuil-Side YULI-      Se lever

 眼が覚めたのは必然だったのか偶然だったのか。気がつけば棺の中に張られた赤いビロードを眼にしている。
 私は棺桶の蓋を上に持ち上げようと腕を動かした。しかし、骨が軋み中々腕も上がらない。しばらく満身の力を込めて腕を上げようとしている内に、なんとか右腕が上がり、棺桶の蓋は騒々しい音を立てて床…たぶん、床に落ちた。そうすると、今度は黴臭い空気と少々埃っぽく、蜘蛛の巣が掛かった天井が見えた。

  やれやれ。

 そう、呟こうとした唇からは、乾いた空気が少し漏れただけだった。
 しかし、聞こえたらしい。一匹の使い魔…とは言え少々知能が高い程度の蝙蝠だが…が、棺の縁に止まった。

 水を

 唇くらいは読めるのか、使い魔は乾いた羽音をさせながら飛び去り、静寂に消える。私は起き上がることも出来ず、唯ぼんやりと、乾きと疲労を感じていた。
 それ程時間は経たなかったのではないだろうか。使い魔はグラスに透明な液体を持って来た。そして、どうにか私に飲ませようとするが、やはり、そこは獣とさして変わらない。零しそうになって私の顔色を窺った。…仕方なく、どうにか動く右手でそれを受け取り、口にしようとした。
 だが失敗とは誰にでもあるものと思い知る。私は思いきりその透明の液体を浴びてしまった。それは、水ではなく酒だったが、なんだったか忘れてしまっていた。それでも、頭が冷えて幾分すっきりした私は、軽く溜息をついて眼を閉じる。使い魔は、また飛び去って行く。どこへ行くのだろうか、別 段気にもならない。

 眠っていたらしく、ふと感じる生暖かさに私は瞳を再び開いた。
 …使い魔は、また私の顔を窺う。私の口元には、使い魔の足に掴まれた茶毛の兎から流れる血液が注がれていた。
 久方ぶりに味わう、命の根源。
 使い魔はキィ、と小さく鳴いた。私が怒っていると思ったらしい。事実、眉はしかめている。
 私は流れて来た血液をそっと口を開いて、より多くを受け入れる。口の中の乾きが嘘の様に満たされ、続いて喉が潤い、最後には全身の疲労が軽減されていた。
 獣の血は生臭い気もしたが、贅沢は言わない。私はゆっくり上半身を起こす。使い魔は兎を掴んだまま近くのテーブルらしい腐った木の台に飛び退く。私は初めて自分の眠っていた部屋を目の当たりにした。
 埃を被っているのは、一つの木製の…先ほどの、腐っているものだが…テーブルと、三叉の燭台くらいなもので、あとは石で出来た壁と床と天井しか見えない。窓はなく、代わりに階段が目に入った。
 ゆっくり、足を曲げる。そして棺の縁に手を掛け、棺の中に立ち上がった。それだけでなんともなしに、身体の感覚を取り戻した気分になる。
 階段はそれほど遠くないはずなのに足取りの重さが階段を遠のかせた。使い魔は私の動向を窺いながら、兎の亡骸を窓の外に運び出す。私は前屈みの姿勢で壁に寄り掛かりながらゆっくりと一歩ずつ進んで行く。壁は冷たく、その先の階段の奥も闇色が広がるばかりだ。心地よい。外は夜だろうか。昼でなければよいのだが。
 転んで膝をつき、両手も床に、まるで獣のような体勢で、私は溜息を吐いた。どうしてこうなるまで眠っていてしまったのだろう。もっと早く起きていればこんなことにはならずに済んでいたのに。
 けれど、そこまで考えて、ようやく一つのことに思い当たった。自分が自ら望んで長い眠りに就いたことに。

 確か、全てに嫌気がさしたのだ。

 私は力を込めて立ち上がる。なんとか階段に辿り着き、重たい足で一段、また一段と、ぎこちない動きで登る。
 何段登ったのだろうか、目の前に木製の扉が現れた。取っ手は鉄製で、錆びていたが、気にせず扉を開け放った。

 冷たい夜気が私を包み込み、今が冬だと私に告げる。近くの窓からは月明かりと雪の反射が部屋に侵入しており、その向こうに見える森は銀色に染まっていた。左手には大きな鏡があり、右手には通 路と闇が広がる。私は鏡に向き合った。
 白く光る銀髪、暖かみの無い肌の色、背中の羽は血の様に真っ赤だった。
 ああ、そうか、これが吸血鬼である私の姿だったな。
 一人納得し、今度は右手の通路を先に進む。周辺に置かれた銀製品は埃の一つも被っておらず、またべた付きもしていないし、シャンデリアも綺麗なままだ。それなのに部屋の隅には蜘蛛の巣がかかり、床には少しシミができている。この先は確か大広間だったな、と、少しだけ思い出すと、羽が疼いた。どうにも、寝ている間に凝り固まってしまって、動くかどうか試してみたかった。
 乾いた音がして、羽が広がる。先ほどよりも大きさを増したそれに、私は羽ばたきを与えた。最初は上手く動かず、二度三度と繰り返す内に羽ばたきに力が加わり、私の身体はふわりと、浮き上がった。そのまま軽く一度羽ばたき、前進させ、もう一度羽ばたいて滑空体勢に入った。文字通 り、空気中を滑りながら私は大広間に足をつける。
 
 それが、新しい世界だと認識した。
 平穏と安寧の空気は世界に溢れ、新しい時代がとうに始まりもう既に長い時間が経っていることを感じる。それが、新しい世界なのだと。昔、になったのだと、私の存在は。
 しかし今に蘇った私は今の存在だ。さて、今の存在は何かしていないと退屈で仕方がない。
 まずは、自分の身体を思うように動くようにしなければならないが、その後は…町に出て考えよう。きっとそれが一番いいはずだ。


Deuil-Side YULI-      Se lever fin

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