今日も仕事の帰りに足を向ける。

山羊さんの可愛いお髭 2

 最近サイレンの生徒はほんの少しサイレンの授業を受け易くなっている。実の所、サイレンがゲーセンに誘うのを断れない生徒もいたし、サイレンと勝負してその後に、たまたまサイレンの知り合い等が現れると肩身が狭い。彼は大抵負けるので慰めるかその前に帰るかの二択を迫られることも多々あったのだ。情けない教師の姿等見たくもない…最近はサイレンからの誘いが掛からないので、心底ホっとしていた。

 「まだ、か…」
 腕時計に目をやる。オフィスは後十分で閉まり、二十四時間営業のゲ−センから人が消える。十一時半までは時間を潰さなければならない。
 「…」
 思わず小さな溜息をつく。この所、ゲーセンの人の捌けが悪く、翌日の仕事もあって結局初めてであった日以来あの道化に会えずにいる。夜中までたむろする大人と子供の狭間の人間が、まるでサイレンの楽しみを奪うかの様だった。例えそれが仲間でも。 昨日はエリカとセリカが遊びに来ていたし、一昨日はジャックが来ていて飲みに誘われた。理由が上手く見つけられず、ずるずると引かれてしまうのだ。
 右手の中指には銀色の指輪が嵌っていて、その内側には、メッセージが掘られている。
 毎日暇さえあれば眺めている。何故だかはサイレンにも解らなかった。それでも、生徒の話の種になるほどサイレンは熱心に眺めていた。

 ようやく長い十分間が終り、サイレンはオフィスを後にし、まだもう少しだけ時間を引き延ばそうとすぐ隣のビルのコンビニに寄った。中では最近のヒットチャートから一曲が選曲されて流れていたが、サイレンの好みの歌ではなかった。
 ふと、チョコレートの袋が目について、サイレンはそれを手にとった。ただのチョコレートだが、一瞬、Aは物が食べられるのだろうかという、別 段何でもないような下らないことを思い付いたのだ。イラストなら食べられないかもしれない。そういう下らないことでも一度考えると実践してみたくなるもので、結局コンビニを出た時点でチョコレートを一袋とペットボトルをニ本、ビニール袋に入れていた。

 運が良かった。丁度始めてあった夜のように、ゲーセンに人の気配はまばら。店員が遠くにいるだけだ。サイレンは今がチャンスとばかりに台に駆け寄り、コインを入れ、いつも通 りできる曲から選曲した。
 そして、この前よりは上手くなっただろうか、少しだけパーセンテージが上がった状態で、三曲目にして敗北。でもサイレンはそんなことは気にしなかった。

 「…やっと会えた」
 鈴の音。サイレンは巻き戻る画面と、微笑んだ山羊の道化を見つめていた。あっという間に三次元の世界に「彼」は順応する。床に降り立ち、サイレンに向き合った。
 「久しいね…もっとも、私はずっとサイレンを見ていたけど」
 山羊は笑ってサイレンの手をとって、まるで中世の王族にするようにキスをした。
 「ええ…でも、やっぱり、そんなにすぐには上手くなりません」
 くすぐったさと照れくささにサイレンは肩を竦めた。会えない間もプレイすることはできたので何となく、見られている、そんな気分でプレイしていた。未だ劣等感に苛まれ、できる曲だけを選曲する様は褒められたものではないかもしれないが、この道化はそれでいいと本心から言ってくれる。サイレンにとって居心地の良い場所なのだ。
 「サイレン…サイレン、会えて嬉しいよ」
 肩を引き寄せられ、道化はぎゅっと彼を抱きしめた。
 「ちょっ…あのっ」
 突然の包容にサイレンは少し抵抗してもがいてみたが、どうもこの華奢だとばかり思っていた長身の道化は意外に力があるらしい。抵抗するだけ無駄 なのを悟って抱かれていると、この道化が本当にそこにいることを実感した。暖かい、鼓動がちゃんと聞こえる。チョコレートなんて持ってこなくても彼が生きていること、本当にそこにいる存在だと、イラストなんかではないと強く実感する。
 「サイレン、会えない間ずっとサイレンの事ばかり考えていたよ」
 道化は包容を解くと、見上げるサイレンの頬を、いつかのように爪で軽く掻いた。そして今度は髭に手をやる。手入れのいいそれを指に絡めて嬉しそうな顔をするのだ。
 「私も…私もアナタのことばかり考えていました」
 サイレンは無意識に指輪に触りながら白い顔に微笑んだ。すると、道化の山羊そのままの耳がヒクリと動いて、ますます道化は笑みを深くした。それだけ見ると、道化という、ある種の狂気をモチーフにした姿では無気味なことこの上ないのだが、サイレンにはただ喜んだ顔にしか見えなかった。
 「そうだ、あの、チョコレートを買ってきたんです」
 手に下げていた袋を持ち上げてみせると、道化はサイレンを解放した。
 「お土産だね? ああ、ありがとうサイレン」
 道化が戯けて一歩下げると深く礼をして見せる。サイレンは気にしないで下さい、と困ったような笑顔を見せた。

 道化は台に軽く腰掛けながら、受け取ったチョコレートを口に入れ、ゆっくりと咀嚼し、飲み込んだ。サイレンはそれを眺めながら、生きているのだな、と、変な感慨を持った。最初こそ驚いたが、指輪をもらったあの日から、日に日にこの道化の存在が、自分の中で広がる。私が下手だなんて言わない、そんなこと思っていないと頭から否定した。それどころが応援してくれてる。時折求められてはいないと錯覚するほどの孤立感に、彼はやすやすと入り込んだ。

 『頑張り屋の可愛いサイレン、恥ずかしがらないで、不安がらないでやってみればいい』

 今まで何度仲間に優しい言葉を掛けられても信じられなかった。自己嫌悪。サイレンの昔からの人を疑う癖が今でも抜けずにサイレン自身を蝕む。
 けれど。

 この不可思議な存在はサイレンを見ていて尚、頑張れなんて重たい言葉ではなく、

 『やってみればいい』

 そんなに、簡単に、軽く、でも、確実に背中を押す言葉を掛けてくれた。

 「サイレン」
 サイレンははっと我に帰った。Aが白いハンカチで口元を軽く拭い、にっこりと微笑んでいた。
 「ありがとう。 美味しかったよ」
  道化の言葉に欠片も嘘は感じられず、サイレンは照れたように少し目を伏せるだけだった。

 しばらくサイレンはシングルプレイを続けた。Aは黙って隣で様子を見ている。途中、一度だけサイレンはAを選曲したが、その曲中、道化はムービーに映らなかった。けれどサイレンは、Aが他の曲を見る時のようにただ見ているでなく、嬉しそうに、台に肘を着いて眺めている様子を、画面 がブラックアウトしている時に確認して、小さく、Aに解らないように微笑んだ。
 語る言葉なんかなくても、二人でいられるだけで、良い様だった。

 「サイレン、サイレン。 そろそろ帰りなさい?」
 何回目かのプレイが終った頃、Aが名残惜しそうにサイレンの肩に手をかける。
 「どうして? まだ…」
 何か言いかけたサイレンの唇に、Aは人差し指を当てて、しー、と静止させた。真正面 に、鼻と鼻が触れあいそうな距離で顔が近づいている。
 「明日も仕事があるだろう、サイレン? 私はお前が寝不足な所は見たくないよ?」
 道化はサイレンの左手を取って時計を指差した。もう一時間経ってしまった。今帰らなければ明日の仕事の時に生欠伸をかみ殺す羽目になるのは明白だったが、サイレンはまだ帰りたくない、そう言いたかった。
 「サイレンは携帯電話は持っている?」
 道化は指を離し、一歩だけ下がる。
 「え、ええ…ありますけど」
 取り出してみせると、白い指がそれを攫った。そして何やら入力するとサイレンの手の平にそれを返した。
 「私のアドレスだよ、いつでも返事をあげるから」
 メールの新規送信画面に表示されているアドレスは、英語でも日本語でもない、文字の羅列の様だった。どこのアドレスだかは解らない。ただ解るのは、この道化に繋がっている、ということだけだ。
 「それからね、もし、良かったら、これを」
 道化はまた左手を取り、手の平を広げさせると、そっと薬指に指輪をはめた。指輪はまた山羊を掘ってあるものだったが、今度の物は二匹の山羊が向き合っている。それに、前より精巧に掘られている様だった。
 「…サイレン」

 静かな声と一緒に、サイレンの意識は一瞬ブラックアウトしてしまう。心地のよい眠りのような感覚にサイレンは抗いもしない。
 気が付いたら、誰かに抱かれている様だった。