ここがどこだか、分からないけど…ただ、ひどく落ちついている自分を、サイレンは感じていた。
山羊さんの可愛いお髭 3
「ごめんなさい、サイレン」
ゆるりとサイレンを抱き締める腕は、山羊の道化のものだった。顎を逸らせて見上げれば、その額に口付けが落ちてくる。不思議と、不快感はなく、サイレンはされるままにしていた。少し上の方で、道化が例のにいっとした笑みを浮かべる。
「あんまり嬉しそうにするものだから、つい連れて来てしまった…ここは私の領域、つまりは仮装現実世界なんですよ」
その言葉に、サイレンはゆっくりと周りを見渡した。まるで宇宙だ。彼は道化にしっかりと抱き締められたまま、空中を彷徨っている。いや、動いているのがサイレンなのかこの空間なのかは、そこにいる彼自身にすら分からなかった。とにかく星の様に光るものがゆっくりと動いている様に、サイレンの目に映る。
道化は足元の方に人差し指を向けた。
「あそこがね、私がよく行く世界」
足元の世界は小さな球体に見えるが、その色や質感を眺め、地球だ、とサイレンは呟いた。大陸の形は違えど、青いぼんやりとした境界線はオゾン層が造り出すそれに見える。
道化は答えず、少しだけ強く、サイレンを抱いた。
「そろそろお帰り、サイレン」答える前に、見知ったゲームセンターのデラ台の横に、立ち尽くすサイレンの姿が徐々にピントを合わせるかの様に現れた。既に道化の姿は無く、サイレンは握りしめていた指輪を、ゆっくり手を開いて眺める。
「…今度は」
独白の様に、呟く。それはゲームのデモ音楽にすら掻き消される程に小さかった。
「またねって、言わせてね」
今になってサイレンの胸は短距離走の後のそれのように彼を苦しめた。しかしそれは苦痛ではないが、彼の顔を赤く染める。はぁ、と小さな溜め息。指輪をしっかりとはめて…今度は右手の人差し指だった…早足に帰路に着いた。電車から降り、部屋に帰れば騒がしくしているニクスの姿を見つけて、サイレンはぐったりとする。この時期は冷暖房を使わなくて済むのでマシだ。しかし、この同居人がいることは寂しさを紛らわせるのにはいいが金銭的には辛い。全く、たまには払って欲しいよ、と心の中で一人ごちた。ニクスは耳聡いのでちょっとした一言も皆聞かれてしまう事を、長い付き合いからサイレンは熟知している。
挨拶は聞いてもらえないのは分かっているので、さっさと自分の部屋…もはや彼にとって最後の砦となってしまった自室へ引き上げ、スーツを投げネクタイも投げる。一日の疲れはベッドに入るだけでは癒されず、彼はすぐに風呂場へ直行した。そして適当に服を脱ぎ捨てて、シャワーを浴びに足を踏み入れる。
熱いシャワーをたっぷりと浴びて、整髪剤を落とし、不要な場所に生えた髭を毛抜きで処理、長過ぎる髭も切り揃えて、少しさっぱりした気分になり、ふう、と溜め息を吐いた。
目に付いた指輪を眺める。どうして、とサイレンはただ嬉しいだけの自分の気持ちを疑う。何故こんなにも、ただ贈り物だけではなく、会える事も、嬉しいのだろうか、と。風呂場から出て来て、冷蔵庫から安酒一本を取り出し、とりあえず飲めるまで一気に飲んで、まだ缶 に酒が残っているままに口を離して部屋に入る。ニクスは次々に移り変わるテレビ番組を見ているのかいないのか、大人しい。寝ていてもテレビの電力消費位 なら…そう思ってから、前はそれにさえもキチキチと気を遣っていたのでなんとか貯金をすることが出来ていたが、それも幾分か切りくずしたな、とまた彼の胸に空洞が開くかの様に空しくなる。
どうして、とサイレンは小さく呟いた。幸い、扉を閉めてしまえば小声までは外に響かない。
玄関でもう一度鍵の開く音。英利も帰って来た。いいや、本当は不法侵入で訴えてやってもいい、そうユーズに言われたのに、人が良くて寂しがりのアクターは人の良い笑顔で迎え入れている。彼は食費と光熱費こそ出せど、家賃には関わってこない。単純に彼のバイトで稼げるだけの金と見合わせて、彼自身が使う金額がそれ以上減ってしまうことが嫌なのだろう。それでサイレンの家に居着き、彼にとってただ迷惑でしかないのに甘え続けている。どちらにせよ、早く出ていって欲しいのがサイレンの本音である。
缶を一気に煽って空にし、ベッドに倒れ込む。長々と溜め息を遠くに吐いて、ふとスーツと一緒に投げた携帯電話を手に取る。特に誰からもメールは来ない。そも、登録件数は相当数ではあれど、ゲーセンの仲間内からもメールなど来ないのが普通 だ。時折、仲間内でこういうメールが誰から来ただの、メールしてて親密になったのという話をしたりする状況に立ち会う。縁の無い話だ、と彼は心底虚無感を覚え、大抵こっそりとその場から逃げ出す。彼は自分は避けられて居るのかもしれない、と常に思っていた。便宜的にイベントに誘われる事はあっても、他愛もない会話の為に食事や買い物に出かけることなど、日本に来てからは一度もない。だからかどうかは彼には分からないが、そういう話をしている『仲間』の顔を見ていると、何故かがっかりしてしまうのだ。半ば失望に近い。積極的に誘い掛けても断られる事が多く、『仲間』の連れない態度がより一層、彼の自信のような何かを根こそぎ奪っていった。そこに理由があったとしても、優先順位 の低さに、どうにもできず、溜め息と消沈を繰り返す。ゲームセンターで彼は、常に疎外感と劣等感に苛まれているのだ。思い出せば出す程に、虚脱感が彼に襲い掛かる。
その視線を最後の新着メ−ルが四日前のメールマガジンであることを確認したその時、彼は不意に送信ボックスの方へ指を動かしていた。そこには未送信のメールが一通 。宛先は英数時の羅列、まるで意味を成さぬかのような。
「私のアドレスだよ、いつでも返事をあげるから」
本当か…半信半疑で、そのアドレスにメールを打ち込む。
****/**/** **:**
To:****@****.**.**
Sub (No title)
こんばんは、さっきは あり
がとう。貴方の見 せてくれ
た世界はとても綺麗でした
。
明日もゲームセンター に行
けると思います。 会える事
を楽しみにしています。それだけ打ち込むのに随分と頭を悩ませた。これで良いだろうかと何回も見直し、ようやく一通 、送信ボタンで送った。さて、どんな返事が来るだろうか、それとも返事など来ないのか、そうやって期待とも疑心とも取れない心境を持て余したまま、ごろり、とベッドの上で転がる。
ほんの数分、彼が酒のもたらす心地よさにうとうとする間もない内に、携帯電話が振動した。急ぎ携帯電話を開いてメール画面 を開く。新規メ−ルのボックスが自動的に選択され、未読マークの付いたメールが一件。サブジェクトが優先表示されるようになっていて、そこには「Re:」とだけ書かれている。そのメールを決定ボタンで呼び出した。
****/**/** **:**
From:******@****.ne.jp
Sub Re:
こんばんは、喜んでも
らえたなら本望です。
また暇があったら連れ
ていきます。
ゲームセンターに貴方
が来るのを心待ちにし
ています。
早く会いたいです。それは間違い無く送った先から返って来たメールだった。普通の返信に、何故か彼は吹き出す。彼の脳裏にはあの背の高い山羊の道化が思い描かれ、それが携帯を弄る場面 …実際に一度目撃はしているが、それを思い浮かべると無性に笑えるのだった。
メールには、追伸のようにこう付け足されていた。
普段、メールすること
もないし、私はサイレ
ンのことをほとんど知
らないから、もしサイ
レンが嫌じゃなければ
たくさんメールをした
い。会える時間が限ら
れ過ぎていて寂しいで
す。サイレンはいよいよ、にやけた。あの道化はサイレンにしてみれば絶対的な存在にさえ見えていたのに、案外普通 だ。でも、そうしながらどこか照れくさい。初めて相手から積極的なメールを求められている。そして彼自身について知りたいと望まれている。それが例え上辺だけだとしても、これだけ早い返信を貰ってしまうと疑う事もなく、サイレンはそれのメールに返信した。今日はもう寝てしまうけど、明日もメールする、と。
掛け布団に潜ってから、メールアドレスを登録する。名前はA、そしてメールアドレスだけを記入して保存する。それから、初めて来た返信メールも保護設定にした。彼には、何故かとても大切なものに思えたのだ。
そうしてサイレンは眠りに就いた。明日の仕事の終わりを夢見る様に。