嗚呼、夜にはお別れです…

FILTH

 「好きなやつが出来た」
 その一言に受話器を取り落としそうになった。昨日の、いや、今朝まで愛しているのは私だけと、耳もとで囁いていたはずなのに。
 「最後、な、お前の言うこと全部聞いてやるよ」
 悲しい優しさで私の胸を押しつぶそうとする。ああ、この馬鹿犬と一言言ってやれれば、どんなにスッキリするだろう!
 「なんか、行きたい所とか、やりたいこととか、ある?」
 私は…私は残酷なことをたくさん考えた。
 それで…一番、私が嬉しくなることを選んだ。
 「映画を見よう、手を繋いで、最近流行りのを。それからね、さよならする前に、キスをしよう」
 私の乗せた言葉は甘く舌に溶けた。嬉しくて嬉しくて、思わず高ぶりを感じる。
 「いいぜ、お前が好きなトコ選べよ」

 その日は三連休の最初の休日で、映画は夕方の回を選んだ。
 「お待たせ」
 席に座って開始を待っていると、赤い髪の人狼がポップコーンとジュースを持ってきた。二人でオレンジジュ−スを啜る。
 映画は他愛も無い恋愛の話だった。赤は途中で寝てしまって、私は最後までポップコーンを咀嚼しながら画面 に見入る。男女の恋とは、こんなものだったのか。羨ましい…それに、綺麗だ。綺麗過ぎた。私の恋心は薄汚い部屋の隅よりもその埃よりも、汚い。もっともっと、きっと女性の嫉妬より男の性欲より今そこに散らばる地面 に落ちたポップコ−ンの残骸に付いた菌より汚い。

 「悪ィ、寝ちまった…」
 それでも手を話さなかった赤い男は欠伸混じりにそう言った。
 「いいよ、ほら、それより…お別れ、だろう?」
 私はその耳を引き寄せる。
 「あ、いや、せめて…その、建物の、影」
 案の定嫌がる。ベッドの上ならなりふりも構わない癖に。公衆の面前があ−たらこーたらと五月蝿く宣わる。そんな彼が愛おしくて仕方ない。そのすらりとした長身、少し骨張った手、綺麗な目、耳、首筋も綺麗だし、何よりその表情…他人には猫かぶりの(狼の癖に、だ)偽りの顔しか見せないのに、私の前では正直な喜怒哀楽をくれるその表情が好きだった。…でも、今日は一度もその正直な顔はしてくれない。
 「ここならいい」
 そう言って、ゆっくりと、近づき、そしてキスをして、舌を、ゆっくり絡めとって、口の中のオレンジの味を互いに確かめるように長い間そうやって密着して息が苦しくなっても放したく無かった。
 「…」
 やがてタイミングは訪れる。
 「…何口に入れてたんだ?」
 赤は飲み込んだそれがなんだか判らなかったらしく、舌を指で押さえるような動作をする。
 「秘密」
 たぶん、この言葉は途中で聞こえなくなっただろう。赤い男は崩れ落ちた。
 「おやすみ…さよなら、赤」
 私は彼を背負って家に向かった。

 私は大きなまな板を用意した。それから包丁。

 「ねえ赤、私は教えられた料理を全部覚えたよ?」
 にっこり、笑った。私は上を見て、嬉しくなる。
 「これがオレンジジュース。最初に教えてもらったな」
 生のオレンジをしぼったそれは、少しドロドロのペーストが混じっていた。
 「それから、こっちがカレー。スマイルに強請られたのは覚えてる?」
 カレーにはあまり具を入れなかった。入ってるのは一種類。
 「ペスカトーレは苦労したなぁ…ねえ、良い出来だろう?」
 雫が中に落ちたペスカト−レはやはりドロドロしていた。
 「あと…赤くなっちゃったけど、マリネサワーも。どうかな?」
 泡立ったマリネが美しく見える。
 「後は…また今度にするよ。ねえ、赤、私とずっと…一緒だよ…」
 私は少し苦いオレンジジュースを飲み干した。
 彼は天上から色を失った目で私を見ている。嬉しいな…
 思わずその切り口にしゃぶりつきたくなるのを我慢した。
 それからカレーを残さず食べて、ペスカトーレもマリネサワーも食べ終わる。
 「ごちそうさま」
 私は軽く飛び上がって赤の頭を抱いた。
 「明日は四肢を全部、ね?」
 私はその頭を寝室に運び、ベッドで大きな枕の私の隣に置いた。

 

FILTH Fin