あの時二人逢わなければこんなに苦しまなかったと心の隙間を少しだけ埋める何か欲しかっただけなの…
悦楽処方箋
初めまして、と名乗る必要は無かった。何故なら彼女は彩葉君と体を共にしていたその人だったから。黒髪を高い位 置で纏め、靡かせ、白と赤を基調にしたライダースーツ着ている。男性用は胸部のサイズが間に合わないのも道理だろう、背の高い彼女には女性サイズのスーツは合わないだろうし、女性を主張するに相応しいだけの豊満な乳房は無理矢理サラシによって押し止められ、零れんばかりであるにも関わらず、狭いライダースーツに無理に納められている…無論、その無理が祟って、前に着いているチャックは臍のすぐ下まで開き切っているが。だがこの姿は大凡彩 葉君とは懸け離れていた。きっと誰もが彼女を彩葉に憑いていた霊であるとは気付くまい。彩 葉自身さえも。
では何故私が気付くのか…皆は気付いていないが、リリスを妹に持つ私に、同じ力が備わらない道理は無い。既に何度かしろろ魔術とやらを試してみたが、失敗はなかった。もちろん、人畜無害な類いで、小さな石に花を咲かせる、布きれに短時間浮遊霊を憑かせ命あるがごとき動きをさせる、死んだばかりの猫を蘇らせる…といった類いのものだ。どれもこれも、付近に生命、霊の存在がなくては出来ないものばかりだ。私はきっと、心のどこかで今日という日が来る事を予想していたのかもしれない…。
入り口に仁王立ちで腕組みをする人物を見遣る。その存在の稀薄さは人間が生まれ持つそれではないし、しかし人間以外の者ではない…生と死の、狭間を見ている気分だった。
「いらっしゃいませ」
声を掛けるだけで存在が揺らいだ。
「ここに、リリスという娘がいるな。出せ」
相変わらず、横暴な口ぶりだった。以前来た時も、ぶっきらぼうだった事を思い出す。
「生憎、妹は出払っております」
からかうと面白いのも承知している。一瞬顔が憎々しいと言わんばかりに歪むがあえて無視した。
「いつ戻る」
そして短気なのもよく知っている。
「さて、今日は土曜日ですから。外泊して、明日の夜戻りますよ」
他の客にするように話してやり、言葉で焦らすと、ますます眉間が寄った。
どうするか…そんな様子で、彼女はまごついた様だった。彼女は一度死んだ事になっている。一体どんな神の気紛れかは知らないが、私が聞いた所、彼女は生前…一度死ぬ 前の生前、不治の病に侵されていたのだという。普段の生活はおろか、バイクに乗るというハードなスポーツですらこなす事ができるのにも関わらず、時折発作的に吐血し、それが止まらないというのだ。彩 葉の身体を借りて、彼女が自虐的に話した事を総合するとそんな所だった。
裏を返せば、彼女には今行く場所が無い、ということに他ならない。いや、彩葉の身体から居なくなって既に数日、もしかしたら何とか自分の身を置く場所くらいは確保したかもしれないが、それでも不安要素が消えないのだろう。魂が、いつまた遊離してしまうか、分からないのだ。
「でも、茶倉君が必要なモノは私でも用意出来るのだよ」
全ては予想の範囲でしかないが、それでも彼女の希望を見越し、カウンターを立てば、唐突な行動に彼女の魂は目に見えて揺らいだ。おそらく、名乗っていないのに、まさか、という類の感情のせいだろう。可愛いものだ。しかしあまりからかい過ぎると私が彼女を再びあの世へ御招待しかねん。
「奥へどうぞ。そろそろ閉店の時間だ」
作業部屋へ続く扉を手の平で示し、招く。あの世へ戻らぬ内に。
逆光の夕暮れは紅く、彼女の存在を強調した。彼女はその身体の造型は西洋的でありながら、強かな日本の美を感じさせる容貌を持っている。そして事実、彼女は強い。唖然として存在が揺らいでも、茶倉はそこに踏み止まった。不安定な魂であっても、精神が強いからこそなし得る業、素晴らしい、と思う。
しばらく事態を飲み込もうとしているのか瞬きをしていたが、少しだけ頭を振って私の顔をじっくりと眺め、小さく口を開いた。
「なんのつもりだ」
睨みつける顔は彩葉が憑り付かれていた時と同じだ。真っ正面から半眼で、思い切り眉をしかめる。凄味もあるが、私には小娘が子犬のように勝ち目の無い戦いを挑むその様にしか見えない。
「何のことはない、君の魂を安定させるだけさ」
椅子を手で示して座るよう促すが、警戒心は高いようだった。とはいえ、それも子犬程度のもの。私の言葉を聞き逃すまいと全身全霊で構えている。どうしたものか、きちんとしなければ店内で昇天になってしまうのだが。
「君は、今にも天国に逆戻りする寸前なのだよ」
その目は油断無く私を観察していた。しかし、それは私に対して既に何がしかの強い興味を抱いた時点でお遊び程度のものでしか無くなる。警戒心は高くとも、警戒する方法は知らないのだ。
「今など私の店に入った途端に存在が揺らいだな。そうやって魂の揺らぎが続けばいつまた天国にご招待となるかも分からぬ よ」
図星だったか、頬に朱が射した。それでもまだ椅子には座らない。平静を保とうとする姿勢には感服する。
「ナイア君とまた勝負するのだろう? それでは挑むだけでも消えてしまうだろうな」
あっという間に、と、言いながら、少しサディズムを刺激されて笑う。時折自分でも最低だとは思うものの、こうして弱っている者を何処かで踏み付けたい衝動というのは、大人になれば成る程に心に生まれゆくものなのでは無いだろうか。
しかし有難い事に、ナイアの名前を出した途端、どかっと茶倉は座り込んだ。黒髪がさあっと揺れたかと思うと、思いきり脚を組んで、背中越しに瞳は私を強く捉える。良かった、これ以上無駄 に抵抗されていたら、私は本気で茶倉を傷付けていたかもしれない。
「スケベな事したら、ぶっつぶす」
紅く染まる頬が、愛らしかった。待っていたまえ、とだけ声を掛け、座らせた茶倉をしばし待たせる。
既に魔法陣は組まれていた。作業場の奥にある材料倉庫の中、最近購入した安い黒革に白い塗料で丁寧に描いてある。リリスには悪いが、私に失敗は無かった。しろろ魔術は手順さえ正確なら問題など起こらない、ごく安全な魔術なのだ。黒革を広げ今一度魔法陣を確認し、その帰りにふと、彼女があまりに窮屈な服を着ている事を思い立った私は、彼女のために幾らか倉庫にあった在庫やアウトレット、中でも彼女が気にしていた商品を引っ張り出して適当な布に包んだ。きっと彼女だってもっと女性らしい格好の方が良いだろう。お節介もいつまでも直らない癖だと自分を笑った。
椅子に座り、暇でも持て余す様に店内を見回す茶倉の背中が見える。茶倉君、と声を掛けると、後ろから鼻梁が見えるくらいに小さく振り返った。
「さ、茶倉君が好きな物を選びたまえ」
座っている茶倉の隣、カウンターの上に、彼女が彩葉と共に店に来た時に眺めていた品や試作品を並べる。意外な事に、彼女はあれでなかなか女性らしいデザインが好きだ。七分丈のパンツ、スカート、キャミソール、ノースリーブ、靴もハイヒールにソール、と。彩 葉君よりも黒っぽい色を好む傾向だ。似たような商品や、見ていた商品の在庫を広げてやると、一瞬あ、と声を上げたものの、何のつもりだ、とドスの聞いた声とノコギリの様な視線に拒否されてしまった。
「何時までもつなぎでは色々不都合があるんじゃないか?」
服を変えればいいと言ったのに、茶倉はガンと拒否した。ちゃんと更衣室もあるし、下着も用意できると申し出てもいらないと言って憚らない。理由を問えば、単に今は動きやすさを重視したいらしい。なるほど、スカートよりは動きやすいだろうが、個人的にはその肉体が何時露出してしまうんじゃないかと勝手に心配してしまう。
幾ら言っても彼女が着替える気配は無かった。まぁ、服は定着に関わらないのでそのまま材料倉庫に案内する。それこそ物珍しそうに倉庫内の布やら釦やらを眺める茶倉を呼び、魔法陣の上に茶倉を横たわらせた。その時明らかになる彼女の足の長さ、すらりとした下腹部、そのまま引き締まった上半身、きつく巻かれて柔らかさを隠す乳房、適度な筋肉をもつ腕、細い首に和洋の折衷した顔…黒髪に、独特の白さが映える。私の求める理想の美がここにあった。怪訝そうに私を見る彼女に向かって、最終確認として一度、拍手(かしわで)を打つ。
「ッ!」
途端、茶倉の魂は揺らぎ揺らめき、体を離れそうになった。ビクリと茶倉も顔を強ばらせる。揺らぎは私の身に感じる事ができる程大きく、魂そのものがまだ身体の中で彷徨っている様に見えた。
「今のが君の状態だ。 些細な事で魂が肉体を離れようとする」
言えば、彼女はああ、と薄く開いた唇から溜め息を漏らした。目は虚ろに私を追う。
「本当…あー…情けな…」
掠れる声は、本来は私になど絶対に漏らさないはずの本心を打ち明けた。その誇りを守り、私は黙ったままそっとチョークを手に取る。魔法陣はまだ少しずつ途切れさせてあるのだ。そのまま完成させておけば私の体に茶倉が定着してしまう。それでは彼女にとって元の木阿弥、私にもいいこと無しだ。
カリカリ、と乾いた音。少しずつ書き足される魔法陣を、茶倉は目で追っていた。警戒はまだしているが、先程よりも大人しく、その気配は落ち着きを見せている。
あと一ヶ所、となる所で窓を閉め、念のため塩と清酒を撒いた。窓、玄関、それから倉庫入口にも。これで余分な魂はこの魔法陣と倉庫の中には存在しなくなる。そもそも香を焚きしめた部屋には、そこまで害の有る魂は存在出来ないだろうが。
「茶倉君、今どんな香りがする?」
念の為、尋ねれば、
「…青臭い」
と返答する。青臭さは『それ』を嫌う証拠だ。まだ茶倉は死と生の狭間にいるから大丈夫だろうが、これがただの死霊なら、その青臭さの原因の所為でここにいることすら適わない。
「いくぞ」
軽く声を掛けて、そっとチョークを走らせる。魔法陣は完成した。
しかし、成功かどうかはすぐには分からない。最初の内、少しぼおっと魔法陣が光った様にも見えたが、さしたる変化は認められなかった。茶倉も怪訝そうに私を見る…半分は睨んでいた。だが確実な変化が起きる。触りもしないのに魔法陣がじわじわと薄くなり、ついに消え去ったのだ。成功した。
今一度拍手を打つ。茶倉はまたビクリとはしたが、その魂は揺らぎなく体に収まったままだ。
「…成功だな」
抱き起こせば、
「そ…そう、なのか?」
やはり信じられない、そう目が不信感をぶつけてくる。
「では、今はどんな香りがするかね」
先ほどの青臭さ…それは実に私好みの香りなのだが。
「キザっぽい薔薇の匂いがする」
やはり彼女は辛辣な言葉で一蹴する。まあ、私の好みというだけなのだからそれでも構わないが。
「茶倉君は知らないだろうが、薔薇というのは退魔の効果を持っていてね」
作業椅子に座らせ、手近に花瓶に差されていた薔薇を目の前にかざして見せる。昨日買ってきた薔薇で、今朝がた大きく花開いた。
「死人の魂は祓われてしまうのだよ」
青臭く感じたのは彼女がその時限りなく死人に近かったからだ。一歩遅ければ、最悪本当にあの世行きだったに違いない。それが…今は、ちゃんとこうして薔薇の祝福を受けて、生きているのだ。
「…よく、わかんねえよ」
少しだけ顔を赤らめ、そっぽを向く。まったく、可愛いものだ。強がりが通じる状態までになったのは良い傾向として受け取ろう。
しかし、思いもよらぬ程、可愛い瞬間と言うものが女性には存在するもので。
「…でも、ありがと」
素直ではない…だが、礼が言えるのはいい。そのどこか照れくさげな様子も、彼女がすれば貴重なワンシーンだ。女性とは不思議なもので、普段しない表情程美しかったりする。そういう部分に、惹かれる事もあるのだ。
「気にするな」
そのかわり、と私は一つ、条件を付け足した。
「はぁ!?舞踏会ぃ!?」
すっとんきょうな声を上げたのは他ならぬ茶倉だ。
「時代錯誤もいいとこだな!アタシは嫌だよ!」
「それなら今の儀式を無効にするしかないな。 君はまたビクビクと魂が体から離れそうになるのを怯えながらすごすのだね」
歯ぎしり。聞こえるほど噛み締めなくともいいだろうに。
「ナイアだとか、アンタの妹だとかいるだろ」
それこそ拗ねた子供の様に少し顔うつ向かせてボソボソと口にする言葉は的は得ていた。
「残念な事に、彼女達では身長が足りなくてね」
一度リリスと踊ってみたが歩幅が違い過ぎて駄目だった。もちろん、歩幅すら合わせられない程私も踊れないのだが、これではナイアでも同じ結果 だろう。ナイアはリリスと身長が同じくらいだし、彩葉は誘える程親しくない。エリカとセリカではどちらかだけを連れて行けば、後で色々詮索されかねない…それは非常に面 倒だ。
「今私が参加しているデザインプロジェクトの一環でね、自分のブランドの服でダンスパーティに参加することが義務なのだよ」
主催がおかしな男なのだ。しかもそれは、内密に、と言われている。完全招待制の、服飾を生業とするものの極一部が招かれるパーティ、秘密を守れる人間がパートナーとして好ましい。茶倉には今し方貸しを作ったし、彩 葉と共にいる頃から義理堅い性格であるのは知っていた。これほどに好条件の相手は居ない。…もちろん、それだけではないのだが。
「…」
茶倉は黙り込む。私はさらに言葉を続けた。
「交通費や諸雑費は一切私が持とう。 ドレスも君専用に準備するよ。 ダンスパーティの会場にはバイキングも用意されるし、君に悪い様にはしない」
そこまで頼んでも駄目なら諦めようとは思っていた。最悪、会場で誰かしら手の空いている人間を捕まえればいい。…高いリスクを伴うが。
「…しょーがねーなぁ」
ぶっきらぼうに放たれた一言。
「礼儀はわきまえてるつもりだ、いいぜ、付き合ってやるよ」
あーぁ、なんだってアタシが…と愚痴るも、了解はしてくれた。その時の私の飛び上がりそうな気持ちと言ったらない。この美しい肢体に着せる服を、私が好きに作る事ができる! その興奮は並のものではない、一つ間違えば世界中に言いふらしそうな程の胸の高鳴りを覚える。
「で、何時なんだよ」
「明日なんだ」
茶倉に更に話が急すぎるだの計画性が無いだのとわめかれながら閉店の札を掛けに店に戻り、すぐ様引き換えして強引に採寸、そのまま型紙を取り出し買い置きの布を一通 り見てデザインを決めた。茶倉は人を罵倒しながら、それでも私の作業を見ている。
「なぁ、練習とかいいのか」
ダンスなんてした事ない、とぼそぼそ呟く。
「踊る内に分かるさ、私も練習等した事はないぞ」
非難と罵声を浴びながら、型紙通りに布を切り終えた所で茶倉に夕飯を指示し、今夜は泊まるように言った。この時間に帰宅させ、翌日また来させる訳にも行くまい。私は今夜リビングで眠る事を余儀なくされるが、使えるベッドは私の物だけだし、明日のリスクが減った事を思えば安いモノだ。
夕飯を済ませ、食器を洗おうと台所に入ると、茶倉が私の腕を引っ張った。
「…何かね」
問えば
「美味かったよ、夕飯…片付けくらい、やってやってもいいぜ」
なんともぶっきらぼうな、それでいて赤く頬を染めた愛らしい態度だった。
「…では、頼もうかな」
入れ違いにキッチンから出ると、すぐに食器を洗う水の音が聴こえた。グローブは食卓に置かれ、そこに茶倉が座っていた事を示唆する。なんとも不思議な気分、リリス以外の誰かと、こうして自宅で夕食を二人きり等、初めての経験だからだろうか。
なるべく素早く装飾を決め、さっさとミシンがけに入る。今は仮縫いをする時間すら惜しい。自分でもデザインが気に入ったので早く仕上げたかった。多少のズレなら構わないし、そこまで酷いズレを起こさない様に集中すれば問題ない。明日まであと四時間、舞踏会は夜からだが店もあるから深夜の三時までにはなんとかしたかった。
茶倉が風呂に入りたがるので風呂を沸かし、ウチのブランドの下着を準備したら散々非難されたがそれもまぁ放っておいて、自室を片付けた。見られて困るものは全て空だったトランクの中へ、壊れ物は一時的にベッドの下に押し込み、本の類いは棚に布を這っておく…一応私だって健全な男子だから、見られたくないものくらいある。しかし、思えば今夜はリビングで眠らずに済みそうだ。多分ドレスは徹夜作業になるに違いない。
茶倉が眠りに就いても、私はミシンを動かし続けた。
その夜の事だった。
静かすぎる中、作業部屋ではミシンがガタガタと激しい音を立てている。ドレスの形は既に見え、あとは装飾を整えるのみだ。そうして次のリボンに手を出そうとしたその時。
「まだ、やってんだな」
不意に背後から茶倉の声がした。振り返り、我が目を疑う。茶倉の身体は半透明に透け、目も虚ろなのだ。一体これは…と、疑問をぶつける前に、茶倉はポツリポツリと話だした。
「なんかさ、アタシ、アンタのこと誤解してた…助けてくれて、ありがと。 …ドレスも、凄い素敵だし。 …明日、楽しみにしてるから」
徐々に茶倉の姿は薄くなり、遂には消えてしまった。慌てて自室に駆け込み、ベッドの上を見る。…茶倉は静かに寝息を立てていた。しかし、魂が少し揺らいでいる。証拠になるかどうかは別 として、目に見えて身体の輪郭の上に揺らいだ茶倉の姿が浮かんでいるのだ。まるでそれは陽炎のよう。…無意識なのか、意識的なものなのか、幽体離脱という現象であることは理解出来た。しかし、これは私の施した術は失敗していたことになるのだろうか。
答えも得られぬまま、術も仕方なしに私はミシンをかけ続け、朝方になってドレスを完成させたのだった。「アンタ無理しすぎなんだよ!」
目に隈を作る私に労いの言葉は無い。適当に作ったベーコンエッグを皿に乗せ、トーストと一緒に差し出した所でようやく静かになるが、それまでは罵倒の嵐だ。
「そんなんで…踊れるのかよ」
頬張ってむすりとした顔など、小娘全開といった所か、可愛いじゃないか。
「無論だ、もちろん店も休まないぞ」
微笑んでやれば、ぐっと押し黙る。心配だなどと言えないのだろう、可愛いものだ。
「倒れちまっても知らないからな!」
つっけんどんな一言、しかし二の句を継げずに突如口を軽く開いたままに黙った。何事かと視線を追えば、一度様子を見ようと白日に晒された漆黒のドレスがその目に映っているようだった。
「ウソ…」
意外な程に女性らしい嘆息の声。そしてドレスへと髪を靡かせて近付く。
「…まるで、夢に見たドレス…それよりも素敵だ…」
魅せられてふらりと一歩、更に歩み寄る。まさか実際深夜に君は見ている等と野暮な事は言わない。…大人の夢は壊さないに限るのだ。
「気に入ったかね」
私の言葉に静かに頷く。見入って装飾をいじる指先は慎重だ。そろりと上をなぞるだけ。リボン、フリル、エッジもシルエットも私の好みではあるが前から頭にあった最も素晴らしいデザインを使った。茶倉君の趣味が私のイメージに近いのは非常に嬉しい。
「これ、着るんだよな…アタシ、入るかな…」
要らぬ心配をする彼女が、可愛いと思った。
「着てみるかい」
ドレスをトルソーから脱がせ差し出せば、こくりと頷く。開店前の試着室へ案内し、一人で着られるデザインではないので私が手伝いながら着せてやる。流石に嫌がらなかった。素直に足を通 し袖に腕を通し、胸元も私に任せる。彼女の長い足にはドレスは少々短かったが、そこは黒の目の荒いタイツで対処しよう。
着てみるとやはり、彼女の長身と黒の長い髪にはよく似合う。黒と黒だがその色は違い、艶めく黒髪に淡く灰を浴びせた黒。私の思い描く美が具現化される。
「よく、似合う…」
笑みを隠せず呟くと、彼女もにこりと笑った。
かようにも女性は素直なモノだったろうか。茶倉は食べ終わった朝食の食器を片付け、そのまま私の部屋へ帰る。このままどこかに出掛けるだろうと踏んでいた私には意外な展開だ。最も、出掛けない方が安定しない魂には良好なのだが。安定はすぐ終る訳ではない、夢を見て起きた朝のような浮遊感が残る。…と、本には書いてあった。さすがに死んだ事はないからそこまでは分からない。
店に出て、支度を終えた頃にエリカがやってくる。そしてふと目線が会った時に意外そうに目を瞬かせた。
「セム、何か良いことでもあったの?」
まるで人がいつでも不幸な顔をしていると言わんばかりだな。失敬な。
「何故だね」
私はそっけなく答える。態度に出せば一日中追求されるのは分かり切った事だ。
「うーん…なんか、なんとなくね、いつもより顔が明るいの」
その一言で、いつか彼女にも似合いのドレスを仕立てようと思った。我ながら単純なものだな。楽しみがあれば仕事はすぐに終わる。昼食の時、茶倉がエリカに会わない様に確認するのもまるでスリリングなゲームだ。物音だとか生活感を悟らせぬ 様に、普段付けないテレビをつけたり、茶倉の足音に自分の咳払いを重ねたり。まあ彼女も気を使ってくれないことだ。エリカは普通 に昼食を終えたが、今日はセム御機嫌だね、と彼女もにこにこしている。バレたらどうなったかなど考えたくもない。
こうして夜を迎え、七時からの舞踏会に少しだけ遅刻して到着した。
タクシーから降りるなり、何処からともなく歓声が聞こえる。そうだろうとも、世の中にこれだけ黒のドレスが似合う女はそう居ない。私のドレスをこんなに着こなせる女はリリス以外の女には少ないのだ。
ハイヒールが高鳴り、タイツは煽情の色を帯びる。手にした黒いシルクの手袋は寸分の隙も無く指先から肘を隠すプラトニック、胸元のはだけ具合いはそれに強調される。最高だった。
会場へ向かう廊下、まだ談笑に花を咲かせていた業界人達がざわめけば、茶倉は驚いた様に私を見る。確かに私はこちらの業界ではそこそこに名を知られた存在ではあるが、所詮若造と年功序列の中で非常に肩身の狭い立場だし、ましてや、声も視線もいつもより礼服に似せて作った私の服や私に向けられたモノではない。むしろ、仮面 で隠され顔などは見えない…それが主催の考えなのだから、見るとすれば服と、それを纏う身体くらいだ。
無論、茶倉に向けられたモノである。コルセットが意味を成さぬ程バランスの取れた体だ、誰もが我が服をと思うだろう。私も茶倉にこのドレスを着せた事を誇りに思う。嘆息の声を聴きながら、そっと横顔を伺う。
彼女は受け付けで蠍の仮面を選んだのだが、蠍の醜悪さとその裏の素顔の美しさが相まって至高の宝を生み出すかのようだった。
胸の高鳴りに乱されぬよう、一度深く吸い込んだ酸素を一気に吐き出す。茶倉の手を取り、私は舞踏会場へ踏み込んだ。「なぁ」
茶倉は小さく、まだざわめくだけの舞踏会場で私に囁いた。
「なんで山羊にしたんだ?」
そう言って、私の仮面に指をやり、そいと鼻を触った。白い山羊の仮面は角があり、蠍と並んで会場では異色の存在だ。蠍はその一匹が広げる鋏から目が覗くというなかなか無いモチーフだった。
「なら何故蠍を?」
私が尋ねれば、うん、と小さく頷き、
「蠍座なんだ、アタシ」
自分に縁があるのか、なるほどと呟けば、アンタは、と茶倉は問い返す。
「私はただ角があればそれでいいのだよ」
醜悪な山羊の仮面の角は長い。茶倉は何故か、笑った。楽隊が演奏を始め、くるりと部屋に輪ができる。そこに私と茶倉も加わって、不揃いなるステップが始まった。ゆっくりとリズムに乗り刻む足音が人を陶酔させる。茶倉が不安げに手を握ってくるのを感じ、握り返し答えた。既に彼女はステップを踏み出している。やれば分かるのだ、単純なダンスなど。多くの参加者はダンスなどを趣味にはしていないし、主催だってきちんとしたダンスなぞ期待しちゃいないだろう。どんなでもいい、自分達がそういう場に、趣味で作った服で参加する事に意義のある、一種の祭だ。
段々と曲が代わる度に狂乱のリズムは速くなる。茶倉も段々慣れてきて、大胆に踊りだす。もちろん私も負けてはいられない。そのステップに合わせ、早足にも付いていく…もはや茶倉の方が先行し、私を導いていた。
めまいを覚えながら、まだ狂々と踊るのだった。彼女は少し疲れたのか、私に目配せし、バイキングのメニューが並ぶテーブルの前で列から離れた。仮面 の下の顔は全部を見ることは出来ないが、少なくとも口元には笑みが象られ、艶やかに紅が桜色を発する。茶倉、桜…と、独り下らない語呂合わせをして、眼を臥せた。目の前には最愛の妹ですらなしえなかった、私にとっての理想美を有する者が、さも愉快そうに笑んでいる。
「さっきからアンタ、ステップが乱れてるよ。 いつもの何でも出来るアンタはどこ?」
からかう口調もまるでこの場を舞台にした女優だ。これを眼の前にして、巧くは踊れない…。
「少し疲れたのだよ、大丈夫だ」
何が大丈夫なのか自分にも問いたいが、とにかくそう返事をし、ドリンクバーで冷えたカクテルを貰う。茶倉も倣ってシャンパンを手にした。シャンパングラスに口づける仕草、色、流し込む喉、手付き、何故にこうも私を惹き付けるのだろうか、そのシャンパンが私であればどんなに幸福であっただろうか。もはやそのシャンパンにすら溺れ、彼女に見惚れる私が居た。
「なんだ、酔ったのか?」
男勝りな声にさえも甘美な響きを感じ、冷汗が吹き出す。あたかも囚われれば死を意味してしまう、サッキュバスに惚れた様だった。
しかしそれは束の間でなくてはならなかった。私は一気にカクテルを飲み干し、まだまださ、とだけ返事をする。だろうな、と彼女はまた笑った。嗚呼、君は笑ってはいけないのに、と。所詮無情なる浅き夢の中だけで終らせるべき関係だ。きっと明日には君はまた復讐の為に動き出すだろう。それこそが彼女が真に美しい時だと判っている。生き生きと、生命ある者の息吹を取り戻す為に必要なのは目的なのだ。
しかしそれを、私は辞めさせて自分の元に置きたがっている。誰かの意志を奪う事などあってはならないのに、心の中の獣はソレを引き裂けと叫ぶ。全く難儀なものだ、私には引き止める事すら出来ないだろうに。
まるで神経を毒にでも犯されたのかのように無言のまま手を取って、二人輪の中へと舞い戻る。するりと入り込み、さて、パートナーを狙う輩を退けた。何処までも不自由な自由さで狂々踊る。彼女の長い黒髪はなびき、甘い甘い毒の様な、媚薬の香りを振り撒いた。
そうしながらいっそのこと手を離したら、いっそのこと置いて帰ればと耳元に天使が囁く。サッキュバスの媚薬から逃れる術はそれだけだ。しかし私はそうしない。まだ踊る。サッキュバスに毒され、快楽に踊らされる。哀れなり我が身よ、しかしそれすら被害妄想だ。言い聞かせども耳を貸さぬ 己をただ甘い悦楽に踊らせた。この心情を持て余し、踊りに見せかけ人気の無いベランダを目指す。夜景は遠く、人気もまばら、今宵此程に美しい時間は無いだろう。
茶倉は不意に私の元を離れ、ベランダの策にゆるりと腕を乗せた。その時にも揺れる黒髪は私を煽って存在を強調する。
「…今更、だけど」
少し酔ったのだろうか、朱に染まる頬は瑞々しい笑みを作った。
「体の事、ありがと。 それから、ドレスも、ここに誘ってくれたことも」
蠍の仮面が外され、素顔が露になる。多少目元が濡れているのは酒のせいだろう。…しかし、誘われた。私も柵に近付く。
「正直さ、ただのシスコンだと思ってた。 でも違うんだな、アンタ優しいし、いい人だよ」
肩越しから胸の前の方へ視線が移る。私を見ている。
「それは、どうも」
平静を装い、こちらも仮面に別れを告げる。途端、笑い声。
「アンタ、酒弱いの?」
鈴のような笑い声とはこのことか、しかし私の、自ら熱く感じる顔は照明から離れたここでも明らかに紅い。
「そうだな…弱くは無いが、さっきのカクテルは強かった」
言い訳を、と自分を馬鹿にしながら茶倉を見る。
「結構可愛いとこあるじゃん」
彼女に言われれば馬鹿にされたとは思わないのだ…都合のいい脳味噌め。
「茶倉」
呼べば首を少しだけ傾げた。
「ん、何?」
その声に甘美な響きを感じる。それが臆病風を呼ぶ。無くすくらいなら手にするなと、囁く。
「いや、なんでもない…」
好きだなどと。
「なんだよ、呼んでおいて」
愛しているだなどと。
「気になるだろ?」
欲しいなどと。
「セム、ちゃんとこっちを見ろ!」
ぐいと私の顎を引き上げる両手が、私の名を呼ぶ声が、その先の胸が、体が、全てが私を魅了する。目を合わせた。
「何か言いたい事でもあったんじゃないのか?」
言ったら、どうなるのだろうか。悪戯な気持ちと失いたくないという歯止めが勝手に葛藤する。
「君が、スケベな事をしたら殺す、と」
逃がしてはもらえないなら、と、腹をくくった。
「は!? …何、馬鹿なこと…」
大仰に怒らせていた肩をすとん、と落として溜め息。呆れた仕草すらも愛しいと思える。
「馬鹿な事じゃないさ、君が、好きだ」
その言葉は酷く自然に口を滑り出た。
「嘘だ、だってまだ会って少ししか…」
「少し? 彩葉君と一緒の時から知っていたよ。 その頃から、ずっと知っていた。 だけど今更気付いたんだ」
我ながら気障だと思う。しかし茶倉を想う程に私は自ら狂いゆく。このままでは死んでしまうのではないかと錯覚すらしていた。
「…」
黙り込みうつ向く茶倉を、少し背を屈めて覗く。表情は固く、私の視線から逃れる様に顔は反らされた。
それが、私の中に潜みありもしない妄想を最も掻き立てる加虐心を煽った。
非常に唐突に、私は茶倉の顎をすいと掬い、驚愕に抵抗も無い茶倉の唇に、自らの唇を押し付けた。数瞬し、事態に気付いた茶倉は私の肩を力任せに押したが、それこそ無意味だった。荒くなる呼吸に私は何処か破壊的な衝動に襲われながら、深く深く、茶倉に入り込もうとしている。それを今更止める事ができるのは、特効薬以外は酸欠のみなのだ。…ようやく酸欠気味になり、放してやれば、茶倉はすぐさま乾いた音のする一発を私にお見舞いした。平手の一撃は頬を熱し、私の脳を少しだけ揺さぶる。
「…」
「…」
しかしながら、その先は沈黙であった。私は茶倉に向き直り、茶倉は私を真っ直ぐに見つめている。
「…なぁ」
まさかさ、と小さく、彼女から切り出した。
「気まぐれでこんなこと、してないよな」
その言葉に頷く。否定などするはずもない…恋心は男も惑わすのだ。
「…なら、今回は見逃す…次は…」
「次は?」
茶倉は今一度、うつ向いた。
「次は、ちゃんと私が心の準備をしてから」
びっくりするからな、と。
まるで世界中の全ての奇跡が私を祝福するかのようだった。私の凶行を彼女は許し、そして…好いてくれていることを、証してくれた。これ以上に幸せな事が他にあるだろうか、何という幸福だろう!
そして、はたと気付く。その瞬間まで、愛しい妹の姿形まで忘れていた自分がいることに。しかしそれを、何処かで望んでいたのかもしれないとさえ思う、自分が居ることも確かだった。
「…分かった、気を付けよう」
答えるだけで、私は一杯一杯なのに。言葉も無い互いを、空間はゆるゆると包むままだ。私は罪を犯しているのだろうか、我が妹を忘れて、自らの欲に走らされ、彼女を好くことでそれに葛藤する罰を受けているのだろうか。
考えても一切が無駄だった。何故なら私は既に、再び茶倉の手を取り狂宴へと身を投げていたから。
リズムに乗る。くるり、くるり、くるくるくるり、くるり、くるり、くるくるくるり。そのリズムに囲まれて、嗚呼、所詮無情なる別 れが追い立てるのを、二人逃げる様に。
もう二度と戻れない。離れる事が出来なく、時計から目を逸らして踊る。さよなら愛しい人よ、時が過ぎ去れば…ほら…もう、会場では欠伸も漏れる…楽隊も疲れ気味だ。
彩は匂えど散りぬるを我が世誰そ…心に唄う言葉も散々、曖昧、浅き夢を見る私は茶倉だけを見つめる。
桜色の唇が、私の名を、なぞる。タクシーは静かに私を我が家まで送り届けた。深夜、彼女の自宅へ彼女を送り、私はもう眠りかけの彼女を家へ連れていこうとしたが、彼女は強く拒否して自力で部屋へ帰る。
私は夢想する。ただ踊る彼女だけを。口づけよりも吐息よりも、そのステップを。翌日、私はいつも通りだった。いつも通り店に立ち、いつも通 りリリスに連絡し、いつも通り皆に笑いかけ、いつも通り髭と納豆好きを店から追い出し、いつも通 り一時エリカに店を任せ、いつも通りゲーセンへ足を向け、いつも通り世音に顔を出し、いつも通 り戻ってきて、いつも通りエリカを帰路へ送り出した。
いつも通りじゃなかったのは、一日中、茶倉の姿を思い浮かべて居たことだった。忘れてしまう事が、ただただ怖かった…
誰もが私達の昨夜を知らない。それで良かった。彼女と私の秘密で良かった。彼女はまだ姿を見せないが、きっと。
良かったんだ。
これほどに思う。想うが、きっと彼女にはどうでもいいことだ。私だけ。
あの時二人逢わなければこんなに苦しまなかったと…隙間はリリスがいない事から生まれた? 私がリリスから離れたから生まれた? どちらにせよ求めるのは茶倉だ。
店の扉に人影。それがポニーテールの女性と見るなり、私の胸はただ高鳴る。
「いらっしゃいませ」
その一言は反射的に口を突いた。二の句は継がない。息が詰まって胸が詰まって、笑みだけが浮かぶ。
「服を見繕って欲しい…棘はウザイから遠慮するよ」
照れ隠しは頬の色を隠さなかった。
悦楽処方箋
完
2005/12/11
写メ日記に書いた長篇のリメイクバージョン、ようやく出来ました。
今回はウチのサイトではある意味初のノマカプ相思相愛系です。
ほいでも茶倉さん意地っぱりだから、まだ認めませんけど。
個人的には気に入ってる話です。聖茶萌えー!
歌はドレミ團の悦楽処方箋から。これ名曲ですよマジで。2006/05/15
セリフを一か所訂正しました。
栗那様、御指摘ありがとうございます!