秋近く、各地方の村で収穫祭が行われようとして、その準備に村人たちが勤しむ頃だった。
「いたぞ!」
「追え!」重々しい蹄の音が森の大地に響いていく。酷く、それは大地に響き渡った。北方に生息する体が大きく毛足の長い馬は、背に屈強な男を乗せて絡み付く蔦を物ともせずに疾走する。
男達の見据える先に裸足の足跡が何処迄も続いていく。その足跡は泥に残ってもまだ形の崩れを起こしておらず、それがまだ新しいものだと伺わせた。大きな馬がその足跡を無遠慮に踏み付けながら追う。しかし先頭の一頭が足を止めた。
「くっ…戻れ! 日没だ!」
先陣を切っていた若い衆は皆怯えた様に後退を始める。その狼狽ぶりは尋常ではなかった。良い歳をした大人も、まだあどけなさの残る男も、一目散に森を抜けよと馬を走らせる。誰もがぶつからぬ よう、それでも迅速に、すぐに、と焦ってそこを後にした。
その様を、木の上からそっと見守る人影があった。しかし、数分も見ない内に、泥の足跡だけを残してその枝からはいなくなる。ほんの少しだけ、すすり泣きのような声だけを残して。
日が沈み、近辺の村が完全に静まった。もちろん酒場から喧噪は絶えず納屋で馬を世話するものもいる。だが、誰一人として村を囲った柵からは出ようとしない。
先ほど男達が荒らした森に、真っ黒な影が、軽快な足音を響かせ歩く。漆黒の毛皮を持った、多分混血であろう、身は細いが体躯の大きな馬が森の中を優雅に進む。
「ふむ…」
馬上の男は傾いたシルクハットを指先で戻した。森には満月が近いにもかかわらず光はなく、大まかなシルエットが浮かぶだけで、男の顔は見えない。無論、表情も見えないが、先程の頷くような一言には、面 白がる様な響きが含まれていた。「なあ、どう思う?」
馬に囁きかける様に、男は馬の鬣を撫でる。その声は独特の高さを持っていて、どんな吟遊詩人でもこの声には適わない、そんな美麗さと、どこか艶と翳りを持った妖しい響きを秘めていた。その声は続ける。
「この森には獣がいる。 鳥もな。 だが見ろ、人がいるぞ」
泥の中の足跡は先程踏み散らされてめちゃくちゃになったそれだった。その外れに、泥の足跡が残っている。乾いたそれはまだ森の奥へと続き、まだ先の闇に消えていた。
「奇妙だ…実に」
男は足跡が途中で二重になっていることに気付いて、馬を止めた。見れば一つは右手に向い、大分乾いている。しかしもう一つは左手に向い、泥が少ないがまだ乾いてはいなかった。
「追うか、もしかしたら村の場所を聞けるかも知れない」
馬は手綱の軽い引きに従って、すぐにその歩みを軽い疾駆へと変えていた。森は昼なお暗く、満月の夜ようやく光が静かに差し込むような場所だった。太陽に向って葉を広げる植物はこの土地特有のもので、昼間はどんな森も光を閉ざしてしまう。地べたに咲く花々は皆光がなくてもなんとか生きていける形をしたものばかりだった。月の明るい夜でもないと、森の中では足元さえ危うい。
しかし動物は違うのか、馬はどんどん奥へと進む。男は男でパイプをふかしている。その火種のお陰で、ようやく男がすっと通 った鼻の持ち主であると確認出来た。綺麗、と一言で言えるだろう。小さすぎず大きすぎない鼻はバランスよく真直ぐにそこにある。これで下の部分が座っていたりしなければどんな鼻であっても美しいだろう。そういう鼻だった。しかし相変わらず他の場所は見えず、そして誰にも見せる必要がないので光等を気にもしない。
「急げ、近くなってきて逃げられたぞ」
くつくつと笑う。馬でさえ気付かなかったのに、茂みの先にあるものの動きを悟ったらしい。すると馬はその気配を探り当てられぬ まま足跡…すでに匂いだけになってしまっている…を追った。持ち前の嗅覚でどうにか存在を掴むと、黒馬は風を切った。蔦も石もまるでお構い無しだ。
やがて森の奥の崖に直面する。只管に真直ぐ逃げて居た足跡の主は崖を登ろうとして落ちる結果 となった。黒馬はその主が落ちてきた真ん前に止まる。
「…おや」
崖の前は開けているが、シルクハットの影はまたも男の顔を隠した。月も雲に隠れ、当たりの様子が一遍に分からなくなる。しかし、男の声色がどうにも間が抜けたものだった。馬もまた目を見開いたようだが、鼻を鳴らして不満げに主人を見る。だが主人は背を降り、動くな、と耳打ちするだけだった。
「おい」
男が声を掛ければ、蹲る影は電撃が走ったかの様に震え、崖に張り付く様にして怯えた声をあげる。少しくぐもってはいるが、若い男の声だった。シルクハットの男に比べて低い声だった。いや、シルクハットの男の声が少し高いのか。どちらにせよ、対照的な声だった。
「お、お、おれ、なにもしてない…ころしてない…ぬすんでない…」
崖の麓、人影が踞る所に、うっすらと月光が差し込んだ。その白が照らし出す、頭を抱える手の平、そこから覗く頭、縮こまる体。全体が、人間のそれではなかった。いや、唯一人間らしいかも知れない、と言えるのは衣服を身に着けている点だろうか。しかし、怯え、震えるその様は追い詰められた小動物を思わせる。何故なら彼には滑らかな毛並みがあった。大きな手の平の先には鉤爪が備わっていたが。
「おれ…おれ、な、なにもしてない…」
しかし毛並みの間に赤い傷が見え隠れする。ばっくりと、まるで熟れ過ぎた果 実が裂けた様に肉の色が生々しく見えてしまっている。先ほどから隠されている顔、どうもそこにも傷があるようだった。指の間から粘液的な赤で濡れた傷口が見える。
「…お前、怪我を?」
毛皮の体が震える。シルクハットの男がそっと手の平に触れると、指がほどける。
現れたのは狼と見間違えるようなどう猛な頭だった。しかしどこか人間の頭を歪めてつくり出したような、酷く奇怪な形で、現に本当に狼であれば鼻も黒く湿るだろうに、肌色の鼻は人間のそれに酷似して居た。大きさを除けば。よくよく見れば耳や眼も動物の様でいて全く違う。
「ふん…人狼か」
男の言葉に獣は頭を緩く横に振った。頭が揺れるごとに血が辺りに点々と散る。普通 の獣よりは随分下に付いている耳の裏にも傷があるようだった。それを隠すかの様に、また雲が月光を遮る。
「お、おれ、にんげん…おおかみ、ちがう…」
不自由そうに言葉を吐き出すが、確かにそれは人間の言葉だった。耳までではないが裂けた口から、何度も自分は人間だと主張する。
「分かった。 分かったから少し黙っててくれ」
男は獣の口を手で掴んで閉じさせると、馬の腹に括られたトランクを引っ張り出した。その中から短い円柱形の軟膏の入れ物を取り出し、蓋をあけて獣の傷口に塗り付けた。獣は塗り付けられる間、じっと堪えて悲鳴の一つもあげず、その手が止まるのを待っていた。
男は見えるだけの傷に薬を塗り込み、鞄に薬をしまって馬に再び括りつけようと立ち上がる。すると、獣は重い体を起こして立ち上がり、男の背中の下の当たりに頭を擦り付けた。
「おい、何だ?」
獣は頭を擦り付けるのをやめない。先ほどの人間であるという主張は嘘であるかの様に、犬そのままに体を擦り付けてくる。その拍子に男は尻餅を付いた。
「本当に…何のつもりだ?」
シルクハットが落ちてその顔が露になった。ちょうど雲も晴れて、満月の光が当たりを白く照らした。
まるで絶世の美人だった。先程少し見えた鼻筋の下は小さくまとまった上品な鼻があり、その下には薄い上唇、そして下は少し厚い唇が続く。しかめられた眉は細く、その下で獣をどうしてくれようかと見つめる瞳は青い。サファイアの瞳、といえばしっくり来るだろう。そして少し長い金髪が少しだけ顔を隠している。白い肌に、金髪と青い瞳は良く似合っていた。
「おれ…うれしい。 おれ、できること、ある?」
律儀な獣だ、と男は嘆息の息を漏らした。恩返しをしたいということらしい。足を揃えて座る様は全くと言って良い程犬に見えるこの獣は、昔の童話や民謡に現れる犬よりよっぽど忠誠心を兼ね備えているらしい。馬も怯えない所を見て、男はでは、と前置きして立ち上がった。
「今夜はここで野宿するつもりなんだが…明日、近辺に村があれば案内してほしいのだが」
獣は村、と言う言葉に身を竦めた。耳も垂れ、尻尾も意気消沈し、なんとも弱々しい有り様だ。
「…ちかく」
ぽそっと、長い口吻が言葉を紡ぐ。
「こや、ある…むら、あした、いく。 むら、とおいから」
どうもその落ち込み様は異常で、男と目を合わせることすらしない。そのままで歩き出し、乾いた音をたてる木の葉の間を、毛皮を引っ掛けながら歩き出した。足が長いのか胴が長いのか、直立歩行ではバランスが悪い様で、手の平をつけて歩く。その様もまた哀愁があり、それを感じた男は酷く怪訝そうな顔をすると、馬の手綱を引いて歩き出す。時折、獣は後ろを振り返って男の所在を確認する。そうやって振り返ると一瞬目が合う気もするのだが、深い色をした獣の目が本当に合っているかどうかは分からない。男は終始無言のままただ後に着いて歩いた。山小屋と思しき丸太小屋は、見れば相当の年月を経てそこに存在している様であったが殆ど傷みもなく、山小屋にしては上等だった。男はふむ、とまた一人頷く。前を歩いていた獣は一度止まって振り返る。
「うま」
そういって小屋の奥の納屋を指差す。そこには馬小屋がある様で、飼葉桶が備え付けられた壁の無い屋根だけの部分があった。
「頼もう」
男は手綱を獣に渡す。獣が引くと、馬は軽快な音をさせながら、納屋へ向う。すると、男はまた、ふむ、と頷き、パイプの火種を足元に落として踏み消した。
「お前、馬の扱いは得意か?」
踏み消した火種が消えたのを確認しながら、男は少し大きな声で獣に訊ねた。
「とくい」
一言帰ってきた言葉に、少し得意げな、笑みのようなものが含まれている。見れば尻尾もせわしなく横揺れしていて、心無しか背中のたてがみに見える場所が膨らんでいた。
「ああ、そうだ。 そこに荷物が括ってあるだろう? 持ってきてくれないか?」
図々しい男の発言にも獣は一向に気にしない様子でうん、とだけ返事をした。確かに馬の背には三つトランクが括られており、それは全て黒い皮張りの、この時世においては高級な品の様だった。
馬は大人しく馬小屋に入り、獣は荷物を持って小屋の入り口に立ち、男を手招きする。男はそれに従い、獣が開けた扉から中に入った。中は月明かりに照らされ、薄暗いが全景が見える。殺風景にも暖炉と木製のテーブルがあるだけだった。奥にベッドも見えるが、全くといって良い程使われていないのは、その皺の無さや掛け布団が畳まれ、枕がその上に乗っていることを見れば明らかだ。
獣は傍らに荷物を置くと、すぐに壁に付けられた燭台の蝋燭に近づき、唯一身につけているズボンのポケットから火打石を取り出し、火を灯した。一つ、二つと火の数が増えるに従い、室内に地下室と奥にもう一部屋あることが窺える。
「あの馬はな」
唐突に男は火打石をポケットしまう獣に話し掛けた。
「私以外には慣れてこないのだよ」
気難しくてね、と馬小屋の方へ眼を向ける。無論、見えているわけは無いのだが、視線の先の黒い馬は大人しく納屋にいるようだった。
「いいうま」
獣はそう答えになっていない返事をした。しかし、男はその唇の端を少し釣り上げて、うむ、と答える。男には満足な返事だったらしい。
獣がトランクをテ−ブルに乗せ、興味津々にそれを眺める。男は特に意に介した様子も無く少し室内を見回した。
「おちゃ」
ふと、獣が声をかける。
「のむ?」
律儀にも椅子を引いて、男がいつでも座れる様にしてある。しかもトランクもいつも間にか手に取り易い高さの棚の上に陳列されて、発言と相まってその獣がある程度の礼儀を弁えてるということを感じさせた。
「いただこうか」
男は遠慮なくそこに座り、シルクハットを机に置くと、ふう、と息を吐いた。そして、返事を聞くなり台所らしい場所へ走り、カチャカチャとお茶を煎れる獣の背中を見つめ、またふむ、と頷く。
するとシルクハットがかたかたと動き出した。まるで心霊現象のようだが、事も無げに男がシルクハットを持ち上げると、そこには一羽、小さな鴉がいた。真っ黒な身体に青味を帯びた光沢が乗り、なんとも言えない輝きを放っている。その鴉は小さく、くぁ、と鳴いて、羽を広げた。それでもシルクハットの鍔よりも狭い。
「からす?」
お茶を持って不安定に歩いてくる獣は、机の上の小さな鴉に眼をぱちくりとさせた。通 常、夜間であれば梟を除いた鳥の全般は目が闇に対応出来ず、飛ぶ事はおろか少しだって身じろぎをする事も叶わない。しかし、ここにいる、ということは男が持ち込んだと見て間違いは無いだろう。だからこそ、獣は驚いたのだ。
「紹介しよう。 旅の相棒のチャチャラだ。 チャチャラ、御挨拶」
男が一つ頭を撫でると、チャチャラと呼ばれた鴉は
「コンニチワ、ボク、チャチャラ」
と、明瞭に挨拶した。その声はインコやオウムと違い、多少嗄れてはいるものの、聞き取り辛さがない。
「話鴉という種類でね、人語だけでなく、猫や犬、他の鳥に至るまで様々な言葉を話す。 …もっとも、意味をきちんと理解はしていないだろうがな」
男の言葉が理解できているのかいないのか、チャチャラは胸を張る様にして机の上から獣を見上げた。別 段怖がる様子も無い、ただ物珍しげに眺めている。獣は獣でお茶の入ったティーポットとティーカップを机の上に静かに並べ、しゃがむ様にしてその鴉を眺める。
「からす…しゃべる。 …いいなぁ」
はぁ、という音を混じらせて、獣は呟いた。その目はしっかり鴉を捉え、ふうっと息を吐く。男はその様子に、片眉をしかめる。
「お前は自分を人間だと言ったな。 …どう言う事か、説明出来るか」
男の言葉に、獣はびくっと身を震わせた。途端にその瞳が炎の所為だけでなく、不安定に揺れるのが見て取れてしまう。うー、と喉を鳴らし、頭をぶんぶんと横に振った。
「…ことば…でない。 …わす、れた…しゃべる、の」
男はふむ、と何度目かも分からない一人の頷きを繰り返した。そして今度は薄暗い中でじっくりと獣を眺め回す。薄明かりでも、そのたてがみから尻尾まで、一直線に黒い縞が一本走るのが見え、またその肩の関節が人間のものに酷似しているのが分かった。器用に馬を扱い、お茶を入れることが出来、火打石を掴む事ができる五指の備わった手を持ちえている事も分かる。しかし、やはりその瞳は肉食獣のそれで、知的な光を宿しているかと問われれば否と答えざるを得ない。
男は尚も獣を見つめた。彼の脳裏では、人間が人間に進化するに到った経緯を辿る図式が繰り広げられ、目の前の獣と自分が知る人間、そして人狼と比べている。進化に不可欠な二足歩行をこなし、五指を備え物を掴み、複雑な言語を幼児並みではあるが操る。しかし高等能力を持ち得る動物特有の目が真正面 を向き、黒目が小さくなる、という特徴は微塵もない。精々狼程度の形でしか有り得ないのだ。その首が太く、頭の大きさと体とのバランスが如何に人間に近くとも、思考能力の高い生物である、とは言えない。彼はそう考えていたが、その反面 で獣の発言にも注意していた。獣は「何も盗んでいない、誰も殺していない」「自分は人間で、狼ではない」「村には行きたくない」「馬の扱いが得意で、その馬の善し悪しを見る目がある」「言葉を忘れている」という意味合いの発言をしている。どれもが信じられる、と彼は思う。動かず、首を傾げるだけの獣を他所に、独り更に深い思考に沈めば、彼が元々人間であった事が証明できないだろうか、と、好奇心が男に芽生えた。
「お前が、人間だったと証明出来るか?」
試しに言った言葉では、獣は首を横に振った。では、ともう一つ問う。
「村に行けば、お前の事情が少しでも分かるのか?」
獣はしばし黙り込んだ。薄く口を開きかけては閉じる。薄く、黒い唇が、言葉を象ろうとして震えるが、それをなし得ぬ ままに塞がれる。話鴉がそれを嘴で真似ていた。
「……わか、る」
蝋燭に燃える炎にさえ掻き消されそうになりながら、ようやっと男の耳に一言だけ伝わった。しかしそれで男には充分だったらしい。今まで見せなかったような深い笑みを獣に向けていた。
「ではその時にお前の話を村で聞くとしよう」
目に見えて獣ががっくりと頭垂れた。その反応も彼が待っていたものだ。半ば、彼の脳内での予測は適中していそうだった。
「ならば聞く。 お前の質問をして出て来るのは、好評か、悪評か?」
好奇心を抑えられないのか、青い目が輝いて、さらに事情の底を探ろうと手を伸ばす。
「あくひょう」
その質問には唸り声が答えた。鼻面にぐっと皺が寄り、牙を剥き出す。その対象が目の前の男でも、そのあまりにどう猛な表情に怯えた話鴉でもない事は、その唇が何か恥じらう様に直ぐさま閉じられた事で感じとれた。
「十分だ。お前の事は村でゆっくり聞くとしよう」
細い指先が毛皮を梳く。その持ち主は何かを堪える様に目を閉じ、耳を後ろへ倒して、くぅん、と犬さながらに鳴いた。
「今夜は明日に備えて眠るとするさ。 …悪い様にはしないよ」
擦り寄って来た大きな獣の頭を落ち着かせる様に何度も何度も、丁寧に撫でた。不思議な事に、それだけで獣は大人しく穏やかに尻尾を揺らし、それ以上不安げな雰囲気を漂わせる事は無かった。
「…べっど、じゅんび、する」
獣はぱたぱたと尻尾を揺らし、ベッドの方へ駆けて行く。後には満足そうにそれを見つめ、錠剤をティーカップの中に満たされていた茶で流し込む男と、穏やかな空気に毛繕いを始める話鴉だけが炎に照らされていた。
翌朝。
コートとベストが風にはためく音が男を覚醒させた。瞼の下、青い宝石が日の光にきらきらと光る。傍らのベッドエンドにはシルクハットと首に緩く巻いていたネクタイがぞんざいに置かれていて、話鴉もそこに踞っていた。
「おはよう」
たどたどしい声が風の吹き込む方から男に朝を告げた。目を向けると、黒髪黒瞳の男が窓の外からベッドの上の碧眼を見つめていた。どこかのどかな雰囲気を持ち、短いざんばらな髪の下、少し太い眉はしっかりとしているが、目尻が少し下がっている為に恐い印象は無い。鼻は高いが、面 長で鼻自体が大きく見え、厚めの唇は少し端が持ち上がっていた。
その上半身は衣服を身に着けておらず、所々に塞がりかけだがまだ痛々しい赤さを持った傷が浮かんでいる。
「ああ…おはよう」
起き上がりシャツの襟元を正し、ネクタイを巻きながら黒髪を眺める。それが昨日の獣であると、彼はとうに察していた。
「おれ…わかる?」
逆に、獣の方はそこを不安に思ったのか、小首を傾げて上目遣いに彼を伺う。首を少し竦めたり、窓枠に両手を揃えて置いている様が犬のそれだ。もちろん、男にとってはそんな仕種を見なくとも、その喋り声や気配で察する事が出来ていた。どこか怯えたような、それでいて人懐っこい、大きな小動物。
「分かるさ。 そんなに不安そうにするな」
男が微笑みかけると、獣はにっこりと笑い、馬屋を指差す。
「あさごはん、できてる…うま、さんぽ、いく?」
「頼むよ、私は朝食をいただこう」
それこそ高級な宿にいる小間使いの様だった。確かに男が身だしなみを終え、台所の椅子に座れば、机には少し冷めてはいるが、半熟の目玉 焼きと芳ばしく焼けたベーコンが皿で待っていて、バケットも佇んでいた。どこで調達したのか、準備が良い、と男は考え込む。そして馬を散歩させているのを窓の外に確認した。そして棚に近付き、トランクの中を丁寧に確かめる。彼の他の持ち物に触った形跡も無い…これだけの接客的な行動は、とても一般 の家庭や安宿で出来る芸当ではない。これはもしや…と、男の方に更に憶測が浮かんだ。男が朝食を終えた頃、馬の嘶きが部屋に微かに飛び込む。窓から見える所で、準備運動として十分なくらいに黒い馬が草を蹴っていた。背に乗る獣は鞍を外した馬の背の上で落ちることも無く軽やかに風を受けていた。
その足が馬屋に向い、馬屋の物音が止んですぐに、小屋の中に獣が戻って来た。
「お前、宿屋の人間か」
唐突に、獣がまだ部屋に入って来て何もしない内に男の、確信を持った疑問が飛ぶ。その質問に、獣はほんの数瞬答えるかを迷っていたが、すぐに首を縦に振った。
「そうか。…それならいいんだ」
ふむ、と、何がおかしかったのか愉快そうに頬を持ち上げて頷く。獣は首を傾げたが、すぐに机の上の食器を片付け始めた。男は獣が片付けをしている間にトランクの棚から下ろした。一つのトランクの中身は操り人形が所狭しと、いや、もう詰め込めるだけ詰め込まれていた。その中から男が適当に引っぱり出したのは赤頭巾の操り人形だった。取っ手を握り、ひょいと持ち上げると、その人形の命たり得る糸は不思議な事に絡まってすらいない。綺麗なままの糸がすーっと、伸びる。すると、すとん、と直立した少女の人形が、彫り物の顔を微笑ませたかの様に一礼した。不思議な事に、人形を持ち上げた後、男の指は全く動いていなかった。
「さぁ、どんな茶番劇が展開するやら、な…」
男は小さく笑んで、人形をもう一度トランクにしまいこむ。そして獣が食器を洗い終わるまで、ゆったりとした足取りで馬小屋に向いながら、ゆるゆると流れる山の時間を眺めているのだった。
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