午後になる前には、獣が手綱を引く黒い馬が背に主人を乗せ、西へと伸びる山道を太陽を背に受けながらゆるゆると歩いていた。コツコツと硬く響く蹄の音が木々に木霊する程に静寂が支配している空間は、それでもどこかにざわめきを持っていた。
「もうすぐ、むら、みえる」
獣は一旦歩みを止め、男に向き直った。その背には一本道が真直ぐに続いているのだけが見え、その先は平野とは言い難いが山道よりは歩きやすいであろう、草地が拡がっている。そして…その先に、炊事の為か、煙が見えた。
「ここ、まっすぐ…おれ、いけない」
ふむ、と、男は頷く。そして一度馬から降りると、シルクハットを脱いで一礼した。
「色々と助かったよ。 有難う」
その顔が、まるで天使のレリーフを思わせる、柔らかで高潔な微笑を描く。服が黒でさえなければ、正しく天使の様であったに違い無い。
「…一宿一飯の礼儀に、金で答える事が無意味な場合にはそれなりに礼を尽くす主義だ」
柔らかな唇が紡ぎ出す言葉は、奇妙なほど重く、自信に満ちた声を伴い、獣の耳に入った。獣は瞬間、何を言われているのか理解が出来ていない顔で、少し首を傾げた。黒い前髪が目元に掛かる。
「その準備が出来たら、チャチャラを寄越すよ」
男は口を上に持ったシルクハットから顔を覗かせる鴉を見せる様に傾け、少しその頭を撫でるとシルクハットを被り直した。手が空くと、今度は獣から手綱を受け取る。
「それじゃあ、また」
男が再び微笑むと、獣は小さく頷き、来た道とは違う、森の中へと姿を消した。
「…ふむ」
微笑みがどこか悪戯なものに変わり、ゆったりとした歩みは再会される。登り切ったその先の眼下に、確かにこじんまりとした村があった。山を降り、村の近くまで歩みをすすめると、にわかに村がざわめき出す。しかし、歩みが進む毎にその雰囲気が歓迎に変わっていった。
「いらっしゃい、こんな辺境まで良く来たね」
「もてなしますよ、今は丁度収穫が終ったばかりで」
老若男女、人の良い笑顔が並ぶ。客人が久しい事は、黒い馬に騒ぐ子供や道の真ん中にまで置かれた藁束が囁いていた。それらを一瞥し、男はさして大きくない、しかしよく通 る声で訪ねる。
「どこかに宿はありますか? 馬が疲れてしまって、早めに休ませたいのですが」
小さな嘘は悟られもせず、その言葉に出て来た一人の男が恭しく深く礼をした。
「この村では俺の家が宿です、是非いらっしゃってください」
顔をあげれば藁のような金髪の下、濃紺の目が人良さそうに笑っている。しかしどこか気障っぽく、長い前髪を手で分け払う仕種に後ろに居た村の女達が歓声を上げた。
「ではお言葉に甘えて」
そのシルクハットが、馬が急に嘶いた所為でくんと上に持ち上がった途端、歓声は一層大きくなった。絹の川が艶めいた果 実のような白い肌に触る様が美しい。それを見て、女達はどこの貴族かと囁き合い、男達ですら見蕩れた…一人、それを妬んで睨み付ける、宿屋の男を別 にして。しかし馬の嘶きは計算されたものだったなどと、知る事等なかった。「こ、こら、この…ッ」
馬の扱いに慣れていると自信満々で手綱を受けた下男はあっという間に振り回され、最早遠くの柵に手綱が引っ掛かってしまい、自身は馬の蹴り上げる足に近付けもしない始末だ。
見れば、宿の豪奢な外見は入り口方面だけ、扉の金には錆びが見え、窓枠の所々が腐れており、どうにも管理の怠りが目に見える。
苦笑を隠しきれずに少し口元が吊り上がると、宿屋の名乗りを上げた男は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「あれでも村一番の家畜使いで」
と、宿屋の男は彼とその宿の名誉の為か、それともただ単に面白くないのかそう告げ、男の荷物を持って宿の戸を潜った。貴族と思しき青年も後に続く。その際に扉が酷く耳障りな音を立て、一瞬シルクハットが一人でにふわりと浮いたが、誰も見ていなかった。
中に入ればそこだけは綺麗な受け付けがあり、そこににこにこと愛想良く笑う老年に差し掛かった夫婦がいる。小奇麗なブラウスと少し色褪せているが当時の黒さを思わせるワンピース、そして丁寧な刺繍の入った前掛けをまとう婦人は、丸く太り背も低く、何処にでもいるお喋り好きの近所のおばさん、といった風だが、くしゅくしゅのブロンドを無理に白い頭巾で抑えている為に四方八方に広がり、まるで蒲公英のような有り様だった。また旦那の方はと言えば、毛皮で出来た短い筒型の帽子を被り、灰色の髪を丁寧に梳いてある…が、赤い鼻の周りも顎も周りも無精髭でいっぱいで、所々掻きむしった様に赤く爪の後が残っている。それが緑に染まった麻のシャツも、少しゆとりのある黒いズボンも、果 ては鞣し革のブーツまでも損ねているという状態だ。よくよく見ればその梳いた様に見える髪が奇態に光っているのを青年は見つけたかも知れない。まるで数年来浴槽というものに無縁の生活を送っていると言わんばかりだ。
それらの事態を目の前にしても、青年は涼しい顔で会釈する。
「よくいらっしゃいました、本日は最も良い部屋を御用意します」
と嗄れ声で旦那が告げる。しかし一礼はしない。そのまま腰に引っ掛けた鍵を手に、こちらへ、と階段の方へ歩いて行く。その階段は受け付けの真上を通 る形で、階段を降りて来ると壁と開けた食堂が見える仕組みだった。朝一番にここに来れば、確かに朝食の場が見えるだろう。青年は階段を登りながら一度振り返り、その食堂を覗き込む。中は当然大人数でも向かえられる様に四人がけのテーブルが七つ程並び、また酒場も兼ねるのかカウンターと酒樽、ビールのジョッキなども見える。木造でありながら他の箇所よりもその部屋が綺麗なのは、大凡その部屋が一番使う為に破損が激しく、修理をしたからではないだろうか。人にそう思わせる程、階段やその周辺と食堂の傷み具合は差があった。
三階まで登ると大きめの部屋があり、一応部屋の扉には金で出来たドアノブが付いている…長年の未使用で少々傷付き曇っているが。旦那はそれを勘付かれない様にか、くるんとドアノブを撫でて、さりげなく…したつもりで…客の目からドアノブを遮った。
「こちらのお部屋になります」
開かれた部屋は中の掃除は行き届いており、大きなベッドは柔らかそうで、クローゼットもそこそこ大きく、またランプと羽ペン、小さく切った羊皮紙が申しわけ程度に置かれた平らな机があった。暖炉はないが、その代わりに、壁に汚い字で「湯たんぽ貸し出し致します」と書かれた紙が貼付けてあった。
「アルノー、何をもたもたしている!」
青年が部屋の入り口まで通されたところで、後ろで小さな叱責が飛ぶ。それは階段をまだ上がり切れずに、三つのトランクを運ぶ男へのものだった。
「お客様を待たせるな!」
「俺だって急いでるよ!」
口答えと共に足音も高く一気に登って来ると、彼は旦那に鞄を押しつけ、不機嫌に階段を降りて行った。
「やぁ、出来の悪い息子ですみません、ご気分を損ねていなければいいのですが…」
父親は 苦笑いを浮かべ、ささ、と言って鞄を部屋の中、茶のカーペットの敷かれた窓際へ置いた。青年もそれに倣って中へ入る。意外なくらいに木は軋まず、うむ、と青年は独り頷いた。
「彼はいつもああなんですか?」
と、父親に問えば、ええ、と苦笑いから笑いの分量を減らした。
「どうにも困ったものです、まぁ、ちゃんと働いていますし、あれはあれで良い所もあるんですがね」
そうですか、という一言の返事に安堵したのか、彼は、じゃ、と一言言いおいて階下へ向かおうとする。が、途中でくる、と振り向き、
「ところで…お客さん、名前はなんて?」
と尋ねた。
「私は」
と、もったいつける風ではないが、瞬時即答せずに、ほんの少しの間が空く。そして、相手を待たせる事無く告げた。
「シャマル・フォーンド、だ」シャマル青年が昼頃に食堂へ行くと、そこには地方の農村でよく見られるジャガイモのスープと、豚肉の薫製の切り身、そして外側がカリカリのパンが並べられていた。コップには水がたっぷりと注がれ、まるで彼を誘うかの様に料理達は湯気を立てている。
「あら、フォーンドさん」
と、陽気に婦人は笑った。彼女は丁度昼食の準備を終え、キッチンから出てきた所だった。
「丁度呼びに行こうと思っていましたの、どうぞお上がりになってくださいまし」
と丁寧に椅子を引いて会釈する。彼はどうも、と挨拶し、その椅子に座り込む。帽子とコートが無い分だけ身軽な青年は、その羽のような様子から、どこか遊び人を彷佛とさせた。その正面 に、婦人は焼いたハムと目玉焼きを乗せたトーストを持って座る。
「そうそう、今晩は村の皆がここに集まって来るんですけれど…フォーンドさんもご一緒にどうですか」
それは婦人の誘い文句で、この宿に来た客はそこで外の話を強請られるのが決まりになっていた。もちろん、それはシャマルに対しても同じであり、この軽薄な青年の豪遊覃や色事の話を聞くのを想像して、既に楽しみで頭が一杯なのである。
「それは楽しそうですね、構わないのでしたら是非」
そう返事をして、その品のいい薄い色の唇で、食事を咀嚼し始めるのだった。時間を彼がどう過ごしていても勝手ではある。しかし、村では一向に部屋からでない青年に対し、その美貌を妬む男達には根暗だのぜい弱だの、果 ては病気持ちなどという勝手な噂が立ち、女性達の間ではミステリアスだのお疲れなんだだの、実は暗殺者で人にはあまり顔を見せないだのと、既に噂の域を越えたような作りごとが語られた。しかし、それも夕刻過ぎ、酒場に村中の人間が集まった頃には掻き消えた。シャマルは夕食の時間に姿を表し、少なめでいい、と少量 のソーセージとサラダを食べ、あとは蜂蜜と混ぜた林檎の地酒を片手に喧噪をカウンターで聴いているだけだったが、少なくともそこに居る事はしていた。
雀斑だらけの「村一番の美女」が彼の隣に座り、大してありもしない胸を二の腕で寄せながら甘ったるい声を出す。
「ねぇ、フォーンド様、何か旅の間に面白いことはなくって?」
貴族らしい彼に合わせてか貴族のような言葉遣いをしているが、彼が笑いを堪えなければならない程それは酷く訛っていた。そんな事もお構い無しに、彼女はねぇねぇと強請り続ける。
「ああ、そうだな」
と、そこでシャマルはアルノーがその場にいるのをちらと横目で確認し、少し口の端で笑って、彼女の要求に答えた。
「ここに来る前、森で狼に合ったよ。 どうもおかしな奴でね、まるで猿の様に手があるようで、木を渡って行ったんだ」
知らないかい、と彼が言い終わる前に、店中がどっと笑いに包まれた。それは彼がきょとんと呆気にとられ、店中を見回さなければならないほどの大笑いだった。アルノーもそうだし、村一番の美女も家畜使いも、宿屋の夫婦も皆が皆大口を開けて笑っている。それが徐々に息切れに変わる頃、パチンと大きな音を立てて薪が爆ぜた。それを、シャマルは見逃さなかった。
アルノーがようやっと笑いを落ち着け、にやにや笑いのまま、シャマルの隣、村一番の美女とは反対側にどかりと座り込んだ。そのニヤニヤは複雑に構成され、ただ可笑しいだけでなく、彼の知らない事を自分がよく知っていると言う優越感、またその狼に関する出来事に対する思いだし笑いが絡まっていた。
「フォーンドさんよ、それを話すとちっと長くなるが、いいかい?」
と、アルノーは強くシャマルの細い肩を上から叩く。可笑しくて仕方ないという様子で、どうぞ、とシャマルが痛みに少し眉をしかめながら薦めると、いよいよニヤリとしてアルノーの長い話が始まったのであった。「そりゃあもう三年くらい前の話よ」
前置きは無く、その一言でいいぞアルノー、と声がする以外は天使が通った様に静かになった。
「この村は戦場に近いってんで、兵隊さんの常駐する宿が必要だったわけだ。 それで、俺は是非うちに、って隊長さんに言いに行ったんだが…どういうわけか、この村は二つ宿があってな」
途端、アルノーは仏頂面を作る。
「どう根回ししたか知らねぇが、その軍は俺のとこじゃなく、村一番の大馬鹿の野郎とその家族がやってた宿の方に行きやがった!」
どん、とカウンターに拳を叩き付ける。その己の姿に心酔でもしたのか、しばし話は止まるが、優越感に満ちた顔で再開される。
「それで俺はこいつぁ臭いと思ったんだ。 それで、二年も常駐した軍が引き上げて、宿が空っぽになった時、こっそり宿を覗いてみたんだよ。 したらな、宿の中は藻抜けの空、誰もいやしねえ。 こりゃますます怪しいってんで、その親子を探したら、もう夕刻も近い森の中に居たんだ」
きし、と軋むような笑い声がシャマルの耳に届く。鷹揚な態度でもっともらしい表情をした若者は、うん、と一つ頷いた。
「アンタは旅の身で知らないかもしれねえが、この村じゃ夜は森に入っちゃいけねえことになってる。 なんでかってぇと、半月より大きな月が出てると…化け物が出るんだよ。 いや、厳密には化け物になる、だな。 この村の西の森は、昔なんとかって悪魔が呪いを掛けていった所為で、その時期にうっかり入り込んだ人間は二目と見られねえ醜い化け物になっちまう。 俺はそんな森に夕刻までいるなんざ正気の沙汰じゃねえと思った…それで、よくよく確認してみたら、奴ら左の手の甲に気味の悪い魔法の模様を書き込んでやがったんだ。 それを見て俺は確信したね、こいつらは悪魔の手先だ、だから呪われないでこの森にいられる、夜までに帰ろうなんざ少しも思わないんだ、その上悪魔の力で客という客を全部呼び込んで、法外な値段を払わせてるんだってね」
そこで素敵、とかいう声がちらほらと聴こえ出す。彼の勇気に乾杯、素晴らしき男よ、と。彼の行動に対する賞讃の声だった。また薪が爆ぜる音。その音はまるで老人が最近の若人に付いてぐちぐちと長い愚痴を吐き出す様に、小さい音ながらしばし続いていた。シャマルはそれを見遣って、ふん、と小さく鼻を鳴らす。が、誰もそんな事はどうでもいいと気にもせず、アルノーの演説が続く。
「そこで俺は奴らの家の物陰で待ち伏せた…そう、猟銃を持ってな」
子供達がバン! などという擬音を口々に発し、騒ぎ出す。
「そうだな、バン! だ。 俺はそいつらが一か所に集まるのを待っていた…その内親子で窓際から月を眺め始めたじゃないか。 変身されたら勝ち目が無い、そう思って俺は即座に猟銃でそいつらの心臓に、バン! だ」
村の英雄! そんな声があちこちから聞こえるのを、その自慢の腕で押さえるような仕種をして制し、彼はなおも話し続ける。
「ところがそこで誤算だ、ガキを仕留め損ねた。 そうだ、あの村一番の大馬鹿野郎だよ、あれでなかなか馬鹿のフリをしていただけだったのかもしれない。 奴は窓から飛び出て一目散に森に向かった。 俺はしくじった! と思ったね。 それで応援を呼んで追い掛けると、奴は西の森に飛び込んだ。俺達はそこで立ち止まって、よくよく目を凝らした。 するとどうだ、そこには馬鹿デカい狼が居たんだ、いや、狼に似た悪魔か。 それはどうみてもあの大馬鹿だったのさ」
女は恐ろしさに意中の男の腕にしがみつき、村一番の美女もシャマルの腕にしなだれ掛かる。しかしシャマルは気にした様子無く、アルノーの方を見ながら薪がいよいよもって不機嫌で断続的な音を上げるのに気を向けていた。
「悪魔め、と俺が猟銃を向けた時には遅かったんだ。 その後は村の皆も知っての通 り、あいつはこの村で人を食い、物を盗む悪行を繰り返している! 俺達はなんとしてでも奴を捉えなければならない!」
そこでわぁっと一気に拍手が起こり、何度目かの乾杯が起こった。俺達の勝利に、奴の敗北に、我等が英雄に。
「そういうわけだ」
アルノーはそれを満足そうに見回し、シャマルの方に向き直った。
「素晴らしいお話ですね」
やぁ、本当に、と彼が腕組みをし、大袈裟に驚いたフリをすれば、それにさえ有頂天でにやりと彼は笑った。してやったりとでも思っているのだろうか、上機嫌で、再び肩を強く叩いた。
「親父、フォーンドさんにビールだ!」
これは奢りだと、ジョッキを渡す。フォーンドはそれを受け取り、有難い、と微笑んで煽った。
「しかし…申し訳ない、長旅の疲れが祟って、骨が軋む様だ」
その言葉に、未だしなだれ掛かっていた村一番の美女や、彼が部屋から出ない理由を邪推した者達が納得したのか互いに目を見合わせている。女達は「ほら、ごらん」などと口にし、男達は黙り込んだ。
「ランプの火を貰ったら、今晩は早めに引き上げるとしよう」
彼が少し俯きがちに微笑めば、女達から長い溜め息が漏れた。長い睫毛に青い瞳が霞んだ色を見せ、その頭の傾斜が上品な線を描くうなじを露にする。金髪はさらりと揺れ、少しその白い肌を擦り、軽く微笑むその頬は、酒の所為か、ほんのりと桃の色に染まっていた。
彼はゆっくりと立ち上がり、予め持ってきていた部屋用のランプに、先程酷く爆ぜていた薪の一欠片を火かき棒で器用に引っ掛けてランプの中に移す。油ランプだったが、木片が中に入り込むだけの余裕はあった。小さな木片は誰もただの火種にしか思わず、またそれを咎めるものも居なかった。
「そうだ」
と、突然青年が振り返ったので、一瞬その周辺の男達がびくりと身を強張らせる…それがまた、青年の中に確信を生んだ。
「明日、私の劇を見に来てください。 これでも人形劇などを生業にしています、あすの夕刻、このお店の前の空き地で如何でしょうか?」
その誘いに再び五月蝿い程の拍手が巻き起こる。彼は恭しく一礼し、ゆっくりとした足取りで自分の部屋へ向かうのだった。その背中に、嫉妬の視線を向けるアルノーがいたのは言う間でも無いかも知れない。シャマルは火種がまだ不機嫌に弾けたがっているのを見て、ふふ、と小さな笑いを漏らした。そこで、彼は壁際にランプを置き、自分は布団に入り込み、壁の方をじっと見遣る。
「さぁ、見せてくれ、お前の知ってる真実を」
その一言に、ランプの火はゆらりと揺らめき、唐突にその光が壁をスクリーンにして広がる。映写 機の様に、そこにはある一人の男が映っていた。
事の始まりは随分と昔に遡っている様だった。アルノーと思しき少年が、一人の上等な服を着た少年を追い回し、石を投げ付け木の枝で打ちのめす。行き止まりに追い詰められ、身体を丸めて必死になっている黒髪の少年の元、数人の男児が集まって彼を打ちのめす。大人に見えない場所では無いし、実際近くを大人が通 っても、誰も止めようとなどしない。
「はん、この呪い屋め!」
少年達は飽きたのか、それだけ言い捨てて去って行く。そこでようやく立ち上がり、声も無く涙をぼろぼろと零す黒髪の少年…それは幼いが、あの森にいた獣だった。獣は身体に付いた土ぼこりを払い、とぼとぼと帰路を歩む。その先は、なんと今泊まっている宿だった。しかし、様子が大分違う。隣にもう一棟の宿舎があり、その全体はよく手入れが行き届いていた。そして、今は空き地の場所には小さな宿屋がある。そこの窓から獣を覗き込んでいる小さなアルノーがいた。
場面は唐突にその家族が食事をする場面となる。獣は柔和な顔の若い両親と共に、手を合わせ何かに祈りを捧げている。そして、その祈りが終ると、父親が手にしていた小さな木の実を差し出した。それは魔払いにも使われるある植物の果 実で、とても小さいが、然るべき紋様を書き込んで飲み込めば、その身に掛かる災厄を遠ざけてくれるというものだった。獣はにっこり笑い、その実を口に入れる。指先にも摘める程小さな果 実を、彼はよく咀嚼して飲み込んだ。パンやハムにも同様の魔除けがナイフで刻まれ、それらを皆で切り分け、食卓としているのだった。
その後は飛び飛びに様々な場面が映し出された。その宿屋は大きく、旅行者がこちらの宿を好む為に、小さな宿にはあまり客が入っていない場面 、獣の両親が占い師であり、そこへ来るお客に占いをし、先々を占う事、またその為に村人に好かれていない事も。獣の家は村でも一番の金持ちだった。それは占いが良く当たるからで、遠方からはるばるやってくる人も多い。その収入は慎ましやかに使われ、資金が溜まれば宿の改築や修繕に使用すると言う、大人しい家族だった。しかしそれでも気に入らない者には気に入らないのだろう。一向に村人から敵意は消えず、家族の誰かが手助けをしようとも…例え村の収穫を手伝おうとも、嵐の後の掃除をしようとも、狩りで仕留めた獲物を分け与えようとも、その行動はただ上から見下す者が行う慈善活動として取られてしまうのだった。恩恵に預かっておきながら。
そして、軍が撤退して行く姿が映る。撤退とは言え、平和協定が結ばれた為のもの、故郷へ引き上げて行く兵士達の顔ははればれとしていた。それを見送る気の良い家族。獣も大きくてを振っている。既に彼は少年ではなくなり、今朝見た、背の高い青年の姿をしていた。しかしやはり、呪いの影響だろうか、目つきや顔つきが少し違ったものに見える。今の彼はおどおどしていてどこか小動物のような雰囲気を漂わせるが、この映像の彼は溌溂とした働き盛りを思わせる元気な表情をしていた。
その彼とその家族は、次に泊まりに来る客の為に、ベッドメイクをし、薪を割り、食材を揃える為に働く。嫌われているが故に値段は相当吹っ掛けられるが、それでも獣は言われた通 り村の中の万屋に行き、上等の肉を一抱え買って買えった。こうして平和に昼の時間も過ぎようという時、そこからが事件だった。
薪割りに獣が精を出していると、その前髪を短いナイフが物凄いスピードで切り裂いて飛んで行った。
「あーあ、鼻の一つも削ぎ落ちるはずだったのによ」
アルノーとその取り巻きが彼を見てにやにやと下品に笑っている。低俗な苛めはこの年齢になっても続いていた。普段の石だの枝だのが投げ付けられていれば彼も逃げないというのは先ほどの飛び飛びのワンシーンで見る事が出来たが、今回は様子が違う。アルノーを始め、取り巻き共はナイフに包丁、猟銃を装備し、彼を取り囲んでいた。さすがの獣もそれには逃げるしかないと思ったのだろう。しかし室内には母親も父親もいる。巻き込まない為に、彼は咄嗟に裏手の林に逃げ込んだ。それを追う銃声。そして、大人気ない鬼ごっこが始まったのである。
銃声とナイフが林から繋がる森の木々を切り裂いて行く。獣は必死に逃げた。そこにある境界線を忘れ、走り抜ける。そこには色の違う土が敷かれ、その先へ獣が入ったのを確認すると、彼らは散り散りに道になっている場所を探した。獣がその領域にいる事にはたと気付き、出ようとするとナイフや猟銃が彼を狙う。無理矢理森の木々を避けて出て行こうとするが、そうしても酷く音がしてすぐにばれてしまう。そうして彼がその場所から抜けだせないでいると、とっぷりと日が暮れ、満月がぼんやりとその姿を夜空に浮かべた。
丁度アルノーの目の前で逃げ出そうとした彼は派手に転んで前に倒れた。アルノーが取り巻き達を呼ぶ。獣は立ち上がろうと腕に力を込めたが、結局それは叶わず、全身を汗でびっしょりと濡らしながら荒く息を吐くだけだった。満月の光がはっきりとしだすにつれ、獣の姿ははっきりと見える様になる。そこの色が違う土は満月を受けてぼんやりと螢のような頼りない光を放ち、より彼の姿はよく見えた。
はぁっと、獣が息を飲んだ。目の前に転がっていた自分の腕が、ぐぐっと奇怪に震え、長くなる。骨が伸びているのか時々ぺきり、という音がした。それを見て獣は悔恨に満ちた表情で、泣き出すのを必死に堪え、しかし自分の姿から目を逸らさず、必死にその変化を見ていた。腕が伸び、筋肉が膨らんだ所為で衣服が弾ける。その背中も既に野獣の骨格を思わせるものになり、胸板も分厚く、背中も筋肉の鎧が覆った。靴が弾けたと思えば、臑がぐっと短くなり、踵からつま先までがその分だけ伸びて行く。つま先も途中の関節から親指だけを残して伸びて、残りの指は丸く太くなり、その付け根を支える部分は丸い肉の盛り上がりが出来た。それらがいっぺんに起こり、獣は歯を食いしばりながらその変化にじっと堪えていた。その顔も、鼻が膨らんで顎の方に大きくなり、それに引き摺られてか頬の辺りから唇までが盛り上がって一繋がりの膨らみとなる。それがもっと顔の前の方へ伸び出す頃には、下顎もぐいと前に伸び、口はそれに応じて広く裂けた。瞬間隙間の空いていた歯も、みしっと音がすると牙が飛び出し、今まであった歯もじりじりと尖る。また鼻梁が膨らんで下がった為に両目は離れ、少し目頭が下の方へ引き混まれた様になったし、その前に向かって重たくなった顔を支える頭は少し平たくなっていた。耳は耳たぶが広がった様になり、そこに犬の耳をそのままくっつけたような形になる。その頭を支える首が伸び、太くなっていく。それら一部始終を獣は身体で感じているようだった。その形がいくらか完成したように見えた時、彼が目をぴくりと見開くと、その黒目が大きくなる。さながら白目の少ない獣の目になったとでも言えばしっくりくるだろうか。その途端に彼の毛穴という毛穴から茶色の滑らかな毛並みが吹き出した。黒髪だからだろうか、頭部の上の方と背中の背骨の上辺りは黒い毛並みが覆い隠す。その内にズボンが破れびりびりと耳障りな音がすると、丁度尾てい骨の所から毛の塊が吹き出す様に飛び出した。それは正しく尻尾であり、それが飛び出た途端にアルノー達の大笑いが獣の耳をひくつかせた。まだ変身の衝撃で身体が動かない彼を置いて、笑い声だけを残して彼らはいなくなる。
その次に映るのは獣の家族の経営する宿屋で、獣の帰りが遅いのを心配して窓から外を覗いていた夫婦を、突然現れたアルノー一味が撃ち殺した。唐突な出来事に、彼らは力無く倒れる。そして彼らの左手の甲に何やら滅茶苦茶な模様を書き込み、彼らはその場を後にする。誰も目撃者はいなかった。何故なら、全ての人々は呪い怖さに夜は自宅か酒場にいるという、村の暗黙の掟に寄る行動の所為である。
翌日、アルノーは今日シャマルに聞かせた英雄潭を語る。村人達は彼を英雄を讃え、彼の宿は引き上げられ、浄化を済ませた後に、獣の宿が彼の物になった。人々は誰も彼も獣とその家族の罪を疑う事はしない。誰もが彼らの死を喜んでいるのだった。
獣の両親の死体は打ち捨てられた。森の一角、誰も寄らない、昔の戦士達の墓場の近くだった。そこにやってきた獣は、両親の死体をその裏手にある山小屋…昨晩泊まったあの山小屋の裏手に埋めた。涙はずっと止まらず、彼は泣きながらその墓の上に突っ伏した。そこまででランプの火が元の小さな火に変わった。ふう、とベッドの中で小さな溜め息。木片は最後に一度爆ぜて墨になりきった。
その布団の中で、彼は気だるそうに寝返りを打つ。その耳に、どこかからの遠吠えを聞きながら、明日の劇を決めた。我ながら、と彼はぼんやり考える。悪魔的なことだ、と。
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