『バルタザールの遍歴』感想めも |
佐藤亜紀『バルタザールの遍歴』(新潮社)を読み終えた。流石佐藤亜紀、惚れ惚れとしてしまう作品だった。「私の筆跡にやや乱れが見えるとしたら、それはバルタザールが左手で飲み、私が右手で書いているからだ」一つの肉体に共棲する双子、メルヒオールとバルタザール。オーストリアの公爵の跡取り息子である彼らは、ナチス=ドイツが台頭してくる中、放蕩と遍歴を重ねて、退廃の美を味わうのであるが……という筋である。
御存知の方も多いかと思うが、直系の男子の名前はすべて、キリストの生誕の時に黄金と没薬と乳香を携えて東方からベツヘルムの厩を訪ねた東方の博士の名前から取られている。カスパール、メルヒオール、バルタザールの3つの名前である。メルヒオールが肉体の名前であるが、一つの身体に二つの魂をもつという数奇な運命に囚われてしまった公爵の話である。彼は二つの心をもて、破滅と退廃に向かって徐々に徐々に一歩を歩んでいく。20世紀初頭のオーストリアという設定もさることながら、物語の展開が小気味よくていい。
メルヒオールの方がどちらかといえば、冷静であり、バルタザールの方が熱い男である。没落していく貴族の立場から、淡々と書かれているところがいい。やはり生涯に一人だけ愛したと思われる従姉妹のマグダとの日々は素敵である。猫のような彼女はきっと彼らの心を惑わしたことであろう。主人公たちも十分に魅力的であるが、わき役たちの存在がこの物語を豊かなものにしているように思える。彼ら・彼女らがいなければただの二重人格の耽美的な話になっていたことだろう。
例えば、主人公たちに最後まで忠実に仕えた執事ロットマイヤーや骨相学者のシュトルツ、貴族になれなかったことをうらやむ叔母、ナチスの少尉エッグハルト、そして最大の危機であり、友人でもあったアンドレアスとベルダルダの不思議な兄妹。彼らは劇の登場人物のように消えたり現れたりする。『戦争の法』でも書いたことであるが、上質のオペラを聞いているような気分になるのだ。こういう素晴らしい作品に出会えてつくづくよかったと思う。 読むことをお薦めします。