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1998年ドイツSF賞、クルト・ラスヴィッツ賞受賞作品。ということで、久々のドイツSFの翻訳作品である。昨今はSFや冒険小説のジャンルミックスが進み、冒険小説や陰謀小説の中にもSFの要素がかなり盛り込まれるようになった。本書もSF的設定をうまく盛り込み、冒険小説的なエンターテイメントとして成功している。前半から後半までの息を呑む追跡劇、イエスのビデオにまつわる謎解きがまるでタペストリーの織物のごとく絡み合い、読者を飽きさせない。訳者の思い入れもあり、訳文もこなれた感がある。本家ドイツでの評判がきちんと受け継がれ、7ヶ国語に翻訳されたのも納得の一冊である。カタルシス的にはラストはかなりいただけないのだが、物語がきちんと閉じているという意味ではよくできた作品ではある。偶然性を利用した際に、読者に違和感なく偶然によって生じた因果を受け入れさせることができるのであれば、小説としては成功していると思う。本書もまた絶対に存在し得ない「イエスのビデオ」がなぜ現代に甦ったのか、色々な推測や推測に関するキーを提示し、その謎に迫る。そういった意味ではミステリ的でもあり、冒険小説的でもあり、SF的でもある。ある種、SFを中心としたスプロール・フィクションであると言っても過言ではない。
主人公のスティーヴンは好奇心が旺盛でやり手のビジネスマン学生。彼は人生をより豊かにするために、各国の発掘現場を巡り渡っていた。今回の発掘はイスラエルの遺跡。彼はたまたま自分の担当する発掘現場で、一体の人骨と副葬品の布袋を発見する。何かのいたずらだと勘違いした彼は、その場で布袋を破り、中身を見てしまう。何とその中には、ビデオの取り扱い説明書が。のちの調査で、どうやらこの人骨は2000年前のもの、しかし彼の骨には医学的処置が施されていた。この発見を報告された責任者のスミス教授は、スポンサーであるメディアの大物ガウンに連絡を入れる。金になりそうだと感じたガウンは、合理的な理由付けをするべく、ドイツ人SF作家アイゼンハルトを雇ったのだった。その後、発掘作業は中止され、メディア王により、イエスのビデオが納められたカメラのありかを探すべく、メディア王は苦闘する。そして自分の発見を隠蔽されそうになったスティーヴンは同じ発掘員の一人で美しき黒髪の女性ユーディトとその兄エホシュアとともに、スティーブンが見つけたメモをもとに、ビデオのありかを探すべく、行動を開始した……。
NVレーベルで出て、3刷(現在はどれくらい売れたのかわからないが)行っているのはカバーと内容なども含めて、売れる要素があるのではないかと思った。本書は映像化したらきっと楽しいだろうなと思っていたら、ドイツではすでに映画化されていた。本書の売り上げと日本の映画会社の懐具合によると思うのだが、そこそこ面白い作品に仕上がっているんじゃないかと想像する。し、しかしジャケットを見るとスティーヴンの顔が(以下戦略的撤退)。
ラストのカタルシスはなんかいただけない。ドイツ人SF作家のアイゼンハルトが実はいい味だしています。スティーブンに関するラストエピローグに悲しさを感じる人は多いかもしれない、というかどうしてこんな風なラストにしてしまったのかと頭を抱えてる。それまではスピーディで無慈悲な話だと思ってかなり夢中になっていたのだが、うーんと悩んでしまう。物語の閉じ方としてはオッケーなんだけど、嫌な奴が全員危ない人になってしまう流れにはちょっと平行。実はイエスのビデオは邪悪なものなのかもしれない、と。この作品を読んで、宗教の怖さをまたまた感じてしまったのでした。薀蓄が楽しい作品だし、お値段分の面白さは絶対保証できます。

元kay-jさんの所有本だった本。最近数学にはまっていることもあって、さくさくと読了。本書は、微積分学の発見者であるアイザック・ニュートン(イギリス)、ケーリー・ハミルトンの定理などで有名なウィリアム・ハミルトン(アイルランド)、そしてインドの奇才、ラマヌジャン(インド)の3人の生家や訪ねた場所を著者自身が訪ねた旅行記エッセイである。数学者である著者が彼らの生家や生まれ育った場所、研究した場所を訪れる姿はまるで巡礼のようである。氏の感激ぶりは、文章からひしひしと伝わってくるし、数学者ではない自分としても氏の熱くたぎる想いを感じることができた。
3人の数学者に共通していえることは、女性関係において非常に不遇であったということ。ハミルトンについては、同情を禁じえない。当時の状況が彼らの恋を認めなかったとはいえ、才気活発なハミルトンに与えたダメージは計り知れないものだと思う。晩年、ハミルトンは熱烈に愛した恋人と会う機会があるのだが、なんとも悲しい恋だろうか。天は彼に才能を与えたとはいえ、別の意味で不遇を与えたといえる。ニュートンしかり、ラマヌジャンしかりである。
ラマヌジャンのケースは特殊とはいえ、彼ら三人に共通することは「美を感じる心」と「忍耐力」に尽きるのではないだろうか。最近ぼくも感じるようになったのだが、数学のNotationや定義が美しくない数学は、美しくないのだ。小平邦彦先生もおっしゃっていたのだが、数学の定理や公理などはもともと自然界にあって、たまたま数学者たちが見つけたという。だかこそ、発明ではなく発見なのであって、彼らの発見は驚異的な忍耐力と集中力、そして卓抜した美の意識があればこそだったのではないかと思う。ラマヌジャンに嫉妬する藤原正彦氏にも納得する。美しいもの、素晴らしいものを美しいと思える審美眼こそが美しい数学を発見するための大切なファクターである、という氏の主張には大いに賛成したい。
彼のほかのエッセイは以前読んだのだが、大半忘れてしまった。ぜひ帰国の際には読んでみたいと思う。数学者ではない人にもお勧めの紀行文系エッセイです。