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復刊ドットコムに「夢の国のリトル・ニモ」の復刊をリクエスト。ご協力お願い致します。


2000年度ブラム・ストーカー賞受賞作。翻訳は上下併せて900ページ強のボリュームのある本書は、クトゥルー神話風味のアメリカンゴチックホラーだった。ぼく自身が感じたのは、クトゥルー神話ということを別に強調しないでもいいかもしれないと思ったことだ。ぼくが怖かったのは、エドガートンという架空の街での閉塞的な村社会でのアウトサイダーに対する視線。さらにbizarreな血筋を持つ一族にまつわる秘密が明らかにされたときの衝撃。主人公ネッド・ダンスタンは、危機に巻き込まれながらもうまく人々を利用し、利用されつつ謎を解き明かすというところがあまりホラーにはなかった手法かもしれない。つまり、複雑怪奇に張り巡らされた物語の筋が徐々につながっていく部分は、うまくミステリのコードを利用しているように思えた。「実は……だった」というサプライズがあるし、読み終えたあと後味が悪いという意味でも、以前読んだ『シャドウランド』とも通ずる終わり方だったと思う。
主人公ネッドは、自分の誕生日が訪れるたびに不思議な夢を見る。夢の中に現れる男は人々を惨殺し、それを楽しんでいる。ネッドはまた誕生日ごとに妙な発作を起こし、夢の中で、何者かに見られている感覚が常にあった。母親スターは、ネッドに詳しくは父親のことを語らず、スターの友人であるグラント夫妻にネッドを任せるという不思議な母子関係が続いていた。多感な幼年期と青年期を過ごしたネッドは34歳のある日、ふと虫の知らせも手伝って、故郷エドガートンへと戻る。母スターが危篤状態に陥ったのだ。そして死の間際に、スターはネッドに彼の父親の名前を告げる。「エドワード・ラインハート」という名を告げて、彼女は鬼籍に入る。ネッドの出生にまつわる謎とは?そして、彼につきまとう「ミスターX」とは一体何者なのか?自分探しの旅が始まる。
ストラウブ自身、クトゥルー神話というコードを導入して、怪奇物語を構築したという感がある。『ダンウイッチの怪』に啓発されている、という意味でクトゥルー神話の系譜に入れられているが、実際はうわべだけな気がする。むしろネッドを含めた、ダンスタン一族の不思議な能力を紐解いていく物語かもしれない、と思う。僕自身は本書はサイコホラーものであり、クトゥルー関係とは読めなかった。クトゥルーよりもむしろ、個性的な登場人物の毒が強すぎて、簡単にカテゴライズできない物語になっているという気がする。ホラーとミステリが融合しているし、また別の次元ではネッドと彼にまつわる女たちの物語でもあるといえる。僕自身は、ネッドにまつわる女性たちの個性の強さがうまく生かされて、忘れがたい印象をもたらしているように思える。特にネッドの叔母たちの個性の強さは、ダンスタン家のキテレツさをうまく強調しているように思えた。登場人物の男性のアクの弱さがうまく物語にコントラストをもたらしている気がする。
人にお勧めしにくい小説。翻訳者の方の苦労がしのばれる。あ、登場人物が多くてかなり辟易しました。もし読もうという人がいるのなら、人物一覧のコピーをとることをお勧めしておきます。
カナダの日本雑貨店にて購入。福武文庫自体が絶版になってしまったため、見つけるのが難しくなったと思われる。ただ、清水義範氏自身は売れっ子の作家であり、比較的ブックオフなどの新古書店で見つけやすいと思われる。他に読む本もあったのだが、とりあえずタイトルに惹かれるものがあったので、読んでみた。あまり期待しないで読んだのだが、哲学的思弁小説として、色々と考えさせられる話だった。人間はなぜ存在するのか、その根底にあるものは実は記憶であるというのが本書のテーマである。
森毅氏のエッセイにもあったが、「脳は何かを記憶すると何かを忘れていくように出来ている」というデバイスだという。だとすれば、ぼくたちが学習して覚えていく過程で様々な出来事を忘れてしまっているということになる。脳にはシナプスという神経回路があり、うまく脳内化学物質によって、感情や記憶などを無意識に制御していると思われる。つまり、脳というデバイスはかなりファジーな機関であり、完全記憶というのは不可能であると思われる。もし我々が完全記憶を持っているとしたら、大半の人間はそのとてつもない情報の記憶の流列に押し流されて気が狂ってしまうのではないだろうか。
本書はコンピューターと人間の脳における記憶への思弁的な考察を交えながら、主人公の高校教師の「記憶」へのこだわりを描いた一冊である。自分が実は正しいと思っていた記憶が実は違った記憶だったりする、というのは我々にもある。もし、誤った記憶が正しいと信じている人たちがいたら、彼らは果たして正しいのだろうか?という疑念が出てくる。この問いは人間理性と人間存在への認識論につながるものだと思う。つまり、記憶の書き換え、すり替え、誤認識というものが実は日常の中で当然のことであるとしたら、我々はどう対処すればいいのか?ということになる。そんな不安な気持ちを清水義範氏は、飄々とした会話文で、読者が主人公と連帯感を持たせるように描くことに成功している。ラストについては、賛否が分かれるところだけれども、ある種ぼくたちの認識で成り立っている世界というのは儚くもろいものなのかもしれない、ということを氏は提示しているのではないかと思った。

ノーベル物理学賞を受賞された朝永振一郎博士のエッセイをまとめた本。元Kay-jさんの本と思われる。以前、小平邦彦先生のエッセイを読んだときに、朝永先生もまたプリンストン大学に滞在していたころのお話があったのを思い出し、どんな方なのか気になっていたのだった。今回、本書を読んで共感するところが多く、何か一つのことをしっかりと学んでいる学生は読むべき一冊だと思った。物理学者として、当時の世界情勢と日本を取り巻く情勢の狭間で、朝永先生が若い人たちへの教育へ心を配られ、科学者として何をなすべきかのかをこのエッセイで記しています。パグウォッシュ会議(冷戦時代に核の抑止のために、世界中の科学者が一同に集まって、Check & Balanceの方法を模索した会議)、沖縄の本土復帰などのイベント、朝永先生の友人たち、そして日常のちょっとした出来事が闊達として飄々に描かれています。
小平先生のエッセイでも思ったのだが、朝永先生もまたエッセイの名手だと思う。数学や物理学という厳密な論理体系からなる学問を学ばれた方々の文章には何か凄みがある。思うに、理論的に何かをとことん考えるということに加え、物理学の場合観測と実験という模索過程もまた加わる。そんなわけでたぶん朝永先生のエッセイはより写実的な気がする。日常のちょっとしたこと、おたまじゃくしの話、武蔵野という地についてなど、普段感じていることを本当に素直に、感じたまま書かれている気がする。そんなちょっとした日常の出来事の中に朝永先生という知性を読み解く鍵があるのかもしれない。
特におーっと思ったのは、「数学がわかるというのは……」というエッセイ。朝永先生もまた、e^{iθ}= cosθ+isinθという指数関数のべき乗と三角関数の関係に驚異を感じたという。一見関係ないような関係と思っていたものが、実はつながっているということだ。また朝永先生は「数学を勉強しているとき、本に書いてあること、いくつかの公理から出発していろいろな結論を証明して、それをもって大きな体系を組み立てていくその各段階の論理の展開はすっかりわかっても、全体的に一向に理解したという気持ちの起こらないことがある」(p97)と述べている。これはぼくも数学を勉強していると感じることである。小さな証明の一つ一つはわかるものの、全体的なスコープが見えないということが多々ある。つまり、ピースピースをうまくつなげない限り、見えてこないわけで、ただ闇雲に勉強してもすべて忘れてしまうことが多い。ところが、スコープが見えてくると段々と論理の構成がわかってきて、どうしてその定理がピースとして重要なのかある日突然分かったり、習ったときにすぐに理解できることがある。そういった意味でも、今までやってきことが突然つながる瞬間というのがあるのかもしれない、と感じたのだった。
ということで、大変面白く飛行機の中で読みました。

『トカジノフ』『トカジャンゴ』に続く戸梶圭太短編集第三弾。最近戸梶作品を読み始めた弟と話をしたときに、「戸梶は終盤までは面白いけど、オチが下手」ということを言っていた。ぼく自身、戸梶圭太は短編作家ではないかと思うことがあり、去年『トカジノフ』『トカジャンゴ』を読んだときに強く感じたのだった。『トカジャクソン』も大変面白い短編集だったのだが、ちょっと設定に無理があるなーという気がしたのだった。そういうマイナス面はあれども、文章の面白さ、饒舌ともいえる文章装飾がプロットの破綻をうまくカバーしているように思える。本書もまた、そういう感じだった。
戸梶圭太のやり方は、筒井康隆の物語手法に似ていて、読んでいて楽しい。一見普通に思える状態に、ちょっとありえない現象が入り込み、とんでもない方向に物語が暴走するというもの。実際、「いたずらクルッパー」なんかSFだし。悲惨な設定ないのに、あっけらかーんとしているところが戸梶作品の魅力なのかもしれない。過度にアナーキー、しかしながら実は倫理的だったりする物語のアンバランスさの狭間に読者は快感を感じるのではないかと思う。
好き嫌いが分かれる短編集かも。とりあえず何も考えずに読めるのがいいです。
文化出版局から出ていたSF短編のアンソロジー。伊藤典夫編『吸血鬼は夜恋をする』と同様、名訳者による贅沢なチョイスをしたアンソロジーである。文化出版局のアンソロジー群は大変入手が困難なものが多く、SFファン泣かせの一冊だったりする。本書は捜索から6年、ようやくオークションにて競り落とした本だった。浅倉久志氏がどのような切り口でどのような短編を選んだのかがわかるという意味では、現在多数刊行されているアンソロジーと比較する楽しみがあると思う。編者が異なれば、アプローチや面白さも異なるわけで、恣意性が働いてしまう。編者のフィルターがどのような興味の方向性を持っているのかを知るという意味でも、大変参考になる。本書はまさに、仮に自分自身がアンソロジーを編んだときの一つの指標になるアンソロジーではないかと思う。現在SFMで浅倉久志氏が、「浅倉久志セレクション」という連載を開始した。70年代の浅倉久志氏の興味がどこにあったのか、今後のSFMの連載とも比較するのも楽しいのではないかと思う。
全体としてトーンが暗めの短編集だと思いました。ペシミスティックな短編が多いので、どちらかというと読み終えて暗い気分になってしまいました。色々な意味でメッセージが含まれた短編や実験的な短編も多いため、大変ストレートなSF作品集ではないかと思います。暗めのSFが好きな人にはお勧めのアンソロジーです。

藤田雅矢、5年ぶりの長編。大変面白く読むことができた。何となく懐かしい気分にさせられるSFである。テイスト的にはマキリップの『ムーンドリーム』のような雰囲気であり、荒巻義雄氏の『時の葦舟』のような感じである。農業関係のお仕事に従事されていた藤田氏ならではの植物描写とネーミングが印象的である。メインとなるアイディアも大変面白い。藤田ワールドともいえるこの不思議な惑星の物語がJコレクションの一冊に入ったことは大変喜ばしいことである。SFって面白いんだ、とSFをジャンルとして読んでいない人たちにSFの楽しさを伝えるために読ませたい一冊である。なんといっても、文章からやさしさや自然への眼差しが自然と伝わってくる作品は久々である。
場所は、広大な砂漠が一面に広がる惑星。そんな中、巨大な銀色の壁<ハハ>が砂漠を耕し、豊穣なる大地へと変えていた。人々は<ハハ>と共生し、<ハハ>と共に移動するムラを形成していた。そんなムラに住まう少年ニジダマは、どこかに存在するという都市に憧れを抱いていた。とある収穫の時期、ムラで獲れる食料をドウグと交換するためにトシからやってくる交易人がムラを訪れたのだった。交易人はツキカゲと名乗り、トシに憧れるニジダマを連れ出して、トシへと向かうのだった……。
著者あとがきにあるように、山田正紀氏の『宝石泥棒』やプリーストの『逆転世界』などに影響されながらも、氏独自の専門知識がうまくミックスされて大変完成度の高い長編に仕上がっています。今まで読んだJコレクションの中でも5本指に入る面白さだと思う。特に銀色の壁と都市を形成するイシコログサの関係と正体がわかったときに、やられたと思いました。なぜ星の綿毛なのかはラストまでのお楽しみですが、星間を渡り歩く綿毛というのは大変ロマンティックな気がします。もちろん、なぜこの世界が形成され、トシとムラが分かれてしまったのかなど謎の部分を含めて、よくアイディアが練られた作品だと感じました。異世界の描写は抜群な分、登場人物の方が薄くなっているのは気になるところだけれども、オススメできる素晴らしい作品です。

あのゲイマンのジュヴナイルファンタジーということで、早速読んでみる。ダークファンタジーテイストの怖い話という感じで、目新しいものはない気がする。『ネヴァーウェア』が大変ぼく好みの不思議なダークファンタジーだったので、期待して読んだのだが、期待したほどではなかったというのが正直なところである。少女の勇気と知恵(主人公は大抵精神力が強い。これは伝統的なのかな?)が世界を救うというもの。世界自体はかなりちっぽけだし、ナルニアのようなスケールはない。むしろ、ボタンの魔女が作り上げた世界からの脱出物語といってもいい。
で、読み終えて何を思い出したかというとこの話ってとても「千と千尋の物語」に似ているなーという感じ。骨組みとしての基本構造は似ているけれども、肉のつけ方がまったく両者ともに違うというのは結構面白い。日本とアメリカの違いはあれども、勇気を与えてくれる物語という意味では一緒な気がする。コラライン自身、この事件をきっかけにきっと大人に成長できたのではないか?とぼくは感じたのだった。可もなく不可もないという出来のファンタジーかな。ナルニアのバリアントとして読むと割りと楽しめるかもしれません。

「黄泉がえり」で一躍人気爆発中の梶尾真治さんのタイム・トラベルを語る入門エッセイ集。7月に読了していたのだが、感想を書くのを忘れたので今回再読をしてみたので、ざっと印象を記しておく。リリカルなSFの名手がどれがツボなのかを描いているので、大変参考になる。梶尾真治さんが好きなSF傾向も分かるので、梶尾真治さんの作品を読み終えた後に「ああなるほど、この部分のこれが好きなのか」と納得するのも吉かもしれない。取り上げられているSF作品も興味深いものが多いのだが、全体的に1950年代から70年代の古きよき時代のSF作品が多数取り上げていて、読みたいと思わせるのは流石である。特にこのエッセイを読んでからボブ・ショウのSFを読みたくなって、読んでしまったというのはある。あとは、ヤングの「たんぽぽ娘」が梶尾さんに与えた影響の大きさを感じたことかな。他に面白かったのは時間旅行につきもののパラドックスの説明とか。
黄泉がえりや自分自身の作品への言及も多いので、面白い。梶尾さんのファンでも、ファンではない人もぜひ一読をオススメしたい。絶好のタイムトラベルSFの入門書になっていると思います。

実はぶたぶたシリーズは本書がはじめてだったりする。とりあえずクリスマスということで、本の山の一番上に鎮座していた本書を読むことにする。ぶたぶたというぶたのぬいぐるみ(なぜか生きている!)がサンタクロースとして活躍する話。ぶたぶたがちょっとしたきっかけをつくって、幸せをもたらすという小ストーリーが時間順に並べられているというもの。なので、クリスマスイヴの朝からはじまり、クリスマスの日に終わるというちょっと凝った物語の編まれ方になっている。
サンタクロースの着ぐるみをしたぶたの人形が色々な場所に出没する……そんな様を思い起こすだけでも、大変メルヘンティックじゃないですか!ここに登場する女の子たちは、ちょっと悩みを抱えていて、自分ではどうしたらいいかわからない状態。彼氏と別れたばかりの女の子や、クリスマス・イヴにやさぐれた30代独身女性などが登場する。で、そんな彼女らが出会ったのはなんとサンタクロースのかっこをしたぶたのお人形さん。ぶたぶたは彼女らを励まし、温かいメッセージを与えたり、ちょっとした勇気のお手伝いをしてくれます。人形のかっこはしているけど、きっとぶたぶたはサンタクロースの化身なのかもしれないと思えたりする。そんなぶたぶたの活躍ぶりに幸あれ。しかし、ぶたぶたの人形は可愛いねぇ。以前現物を見せていただく機会があったのだが、これがなかなか良く出来ていたりする。
とにかくクリスマスの女子限定のプレゼントとしてあげたい一冊。男性には森見登美彦『太陽の塔』(新潮社)(笑)というのがいいかもしれません。ともあれ心温まる話なので、クリスマス前に読むのが吉な気がします。

安田ママさんのところで紹介されていて、前々から気になっていた漫画。ぼく自身、岡崎京子さんの作品はこれが初読であり、現在大事故に遭われて漫画家活動を休業中ということも知った。紋切り型の言葉になってしまうが、心よりご回復を祈りたい。まずこの作品を読んで感じたことは、登場人物の「目の動き」が与えるインパクトの凄さである。仕事で活躍している主人公リリコの目、男に甘えるリリコの目、そして壊れていくリリコの目など主人公が段々と壊れていく感じが目によって伝えられている。他の作品を買って読んでみた(機会があれば紹介したい)のだが、目の動きが岡崎さんの漫画を特徴付けているように思えた。
この作品は魂を揺さぶる何かがある。というのは、我々が住んでいる消費社会の本質を鋭く捉えているからだ。モード化された美と欲望は、「もとのままのもんは骨と目ん玉と髪と耳とアソコぐらいなもんでね あとは全部つくりもんなのさ。」という主人公リリコを作り上げた。例えば世に氾濫するテレビや雑誌の広告では、美しいとされるモデルを起用し、彼女を記号化することにより消費者にメッセージを伝える。そのモデルはすでにブランドとして確立しているために、我々は信頼感を与えられる。そして我々は少しでも美しいと思われたいがために、広告された商品を購入するのだ。リリコはまさに究極のシンボルであり、消費社会が作り上げた悲しきモンスターなのだ。マスコミという媒体に踊らされ、翻弄される悲しき一人の女性像がここにある。
醜いアヒルの子であったリリコは、消費社会の美しきシンボルとして生まれ変わる。ただし、魔法にはメンテナンスがかかるのだ。彼女の人格を崩壊へ向かわせるような過酷な投薬と治療を常に行わないといけないのだ。魔法が切れたとき、人々は代償を支払う羽目になる。魔法が続く限りは美しさを得ることができるという、整形クリニックの院長の台詞は意味深である。つまり、美を得るためには常に高い代償を支払わなければいけないということだ。ただで昼飯は食べられない、ということだ。実際、整形ではなく天性の美を兼ね備えた人たちも、体型を維持するために日々努力されている。自己節制の世界である。ところが、お金という対価を払うことによって手軽に自分を変えることができる整形手術という手段もまた、大変な代償を支払う羽目になるわけである。某ハリウッドスターもまた、リリコのようになってしまったのだろうかと心配になる。
謎めいた刑事が大変いい感じである。この物語は鬱々とした物語なのだが、彼がリリコの再生役として活躍する点に救いを感じる。弱い人間と強い人間をうまく書ききり、そして人間の弱い一面を書ききったこの作品は、色々な意味で重みを感じさせる物語だ。本書の続きを読んでみたいと思う反面、これでいいのだと思う自分がいる。未完だからこその美しさというのはあるのかもしれない、とぼくは感じた。強くオススメしたい。

タイトルに騙されてはいけない。第15回日本ファンタジーノベル大賞大賞受賞作。クリスマス前後にこの本が出版されたことを素直に喜びたい。文章力、妄想力、アイディア、どれをとっても大満足の一冊。作者は現役京大院生ということで、京都の街を舞台にした妄想の入ったモテナイ大学生が、元カノを巡って冒険する(?)という感じの話し。元カノの人は、なぜか岡本太郎が作った太陽の塔マニアという謎な人で、主人公は元カノの水尾さんを研究する(別名ストーカーというのだが(笑))のが趣味という素敵な男性である。で、彼は徹底的にもてない人たちとつるんでいる。もてないカルテットの面々も凄まじい。ということで、あまりの面白さに一気読みして、夜中に大声で笑ってしまった。ということで、先日青山にあった岡本太郎の作品をじっと見つめて噴出してしまい、友人に訝しい目で見られたのは秘密だ。
登場人物が一癖も二癖もある連中で、実際回りにいそうな感じがする部分が生々しい。どこか根本的にずれている人たちで、そんな人たちが何かをたくらむので楽しい。そのズレの部分が京都のありふれた日常をずらしていく部分がファンタジーなのではないかと思った。ある種、小劇場でどたばたコントを見ているような感覚なのかなぁと思った。実際、ラストあたりのカタルシスが大団円(?)なように思えるし。あとは、文章のうまさがスピード感を与えているのが印象的。松浦亜弥オフィシャルファンクラブが敵なの?(このくだりで爆笑)とか、そういうちょっとしたピンポイントで装飾された文章が大変面白いのである。
また本書は、男性諸氏なら一度は考えたことがあるような妄想がたっぷり詰まっているのがいい。自分も含め、クリスマスイブというイベントに呪詛を吐いたことのある人たちには主人公の気持ちが痛いほどよくわかるはずだ。外国においてはクリスマスイブとクリスマスは家族と過ごすイベントであって、恋人と過ごすという習慣はない。いつからそうなったのか自分でも不思議に思うのだが、まあともかくクリスマスイブに彼らが仕掛けたようなイベントをやってみたいと思ったのは公然の秘密である。久々に日本ファンタジーノベル大賞受賞作を読んだわけだが、これは素直にオススメしたい。滝本も読もうかな。

さくさくと読了。表紙が大変素晴らしい本である。内容&装丁とも相俟って、クリスマスの贈り物に最良なのではないかと思う。僕たちは心のどこかに「空を飛翔したい」という願望があるのではないかと思う。そんな願望を浅暮三文氏は、青春のほろ苦さを交えて描いたのではないかと思う。ラジオという媒体を通じて起こる時空を超えた奇跡。昔と現在が交錯することによって主人公がなぜ空を少しだけ飛べるようになったのか、明らかにされていく。大学最終年になって、自分がやりたいことが見つからなかった主人公がつきつめる自分探しの旅。一体どうして自分は10センチだけ飛べるのか、その謎が明らかになったときに、主人公は自分がやりたいことを見つけることになる。この物語は自分の過去を見つめると同時に、自分の進むべき道を認識するための素敵な物語なのだ。
主人公が大学4年生というところに共感。あのときの自分は一体何をやっていたのか、何を得ようとしていたのか模索していたと思う。そんな青春のほろ苦さを思い出させてくれる魔力がこの本にはある。確かに主人公は10cmしか空を飛べないかもしれない。しかし、本当に空を飛びたいと思っている人ならば、そんなことはどうでもいいことなのだ。空を飛べるということを信じる心こそが、とても大切なことなのかもしれないとぼくは感じる。信じれば何事だって可能なんだ!って思うことこそが、一番大切なことだとぼくは思う。
この小説は、村上春樹テイストで、村上春樹さんと浅暮三文さんの世代に流れる何かを感じることができた。ラジオから流れるフリー・アズ・ア・バードのメロディを聞きながらぼくは今日も本を読み続ける。

読んだのはハードカバー版。先日の本の整理で出てきたので、読みたくなったので読んだ。最近の戸梶圭太作品と比べるとおとなしめで、そんなに狂っているとは思えない馬鹿ノワール。戸梶圭太の作品はフレンチノワールとも通じており、ちょっと変な登場人物が変なことをして、変な展開になっていくという感じ。その後の作品を読んでみてわかるように、本作品は今の戸梶圭太を知る上での結節点として読んでおくべき作品かもしれない。戸梶圭太作品の魅力は、文章のスピード感である。昔のパルプマガジンにあるような、流れるようなストーリー展開と文章だと思う。それが彼の最大の持ち味であり、強みである。
今回はやくざと離婚した女性が自分の一人娘を取り戻すために、いとこである主人公の女性に依頼するというもの。そして彼女のパートナーとして、車に命をかけている幼馴染の男に依頼して、娘を誘拐するというのが大筋のストーリー。ところがこれだけではないのが、戸梶作品。ただの誘拐ものかなーと思っていたら、違う。やくざとのチェイスからはじまる本書は一ひねりされたストーリー展開になる。誘拐犯を騙る連中が出てきたあたりで、ますます面白くなっていく。果てにはAK47が出てきたりと、一種戦争状態に突入という感じ。とだんだん、内容は過激になっていくのだがラストはハートウォーミングな締めになるので、感心。
この流れるようなストーリーが戸梶作品の魅力なんだよなーと改めて痛感。武器オタクのヤクザの大藪ノベルの描写に受けた。大藪ノベル的な世界という引用文の使い方に大笑い。いや、確かに下手な武器教本よりはリアリティがあるからもしかすると愛読している武器オタクがいるのではないかと思わせるところがよかった。オススメ。

感覚系ホラー。主人公の能力がユニークなのだが、どこかで読んだような気がするのは、たぶん昔読んだ小説にそういうネタのものがあったからだと思う。きっと浅暮三文氏の感覚ミステリーを読んでいることも作用しているのかもしれない。想像したよりはグロテスクではないミステリホラーともいえる。算数の加減のやり方から、物語を導入するのはユニークなのだが、何となく絡め方が悪い気がする。
トラウマを持った小学生の女の子(工藤)の唐突な行為に秘められた謎が、主人公のとある能力によって明らかにされていくのは面白い。ヒロインらしき女性(同僚の塾講師木野)があんまり活躍しないのが、残念。色々なトラウマや思惑が絡む部分は動機付けがあるのだが(そういった意味では最近ハマっている岡崎京子作品のような不条理さがある)、総体として何となく物語のピースがちぐはぐな感じを受けてしまった。という意味では、全体的な骨組みは悪くはないのに、ピースがかっちりはまっていないために折角のネタが生かされていない気がする。
長編作品にしたらまた違った感じになっていたのではないかと思う。ネタは面白いのに、消化不足になってしまった感が否めない一冊。ということで、あまりオススメできません。伊島りすと氏の作品は他のを読んで見て、また評価したいと思います。

プラチナ・ファンタジーの一冊。中野善夫さん翻訳の本邦初紹介のリリカルなファンタジー。この本を翻訳したかったという中野善夫さんの気持ちがよくわかった気がする。読了後、大変切ない気持ちになったのは言うまでもない。この感覚は、ぼくが大変愛する<魔剣伝説>シリーズのラストに近い感覚である。そう、この作品は決して得られない愛を語る素敵な物語なのだ。お互いは惹かれあっていても、運命がそうできないという切なさを綴ったお話なのではないかと思った。
主人公は才能溢れる見習い魔術師オーブリイ。彼は、師の紹介で変身の魔法では世界一という魔法使いグライレンドンの元へと弟子入りするために、彼の館を訪れる。ところが、グライレンドンは不在であった。そのとき対応したのが、グライレンドンの妻リリスだった。彼女はどことなく不思議な魅力を漂わせた女性で、オーブリイは彼女に惹かれるのだった。彼女の許可を得て、彼はグライレンドンの館に滞在し、彼を待つことに。この館にはまた家事をする不思議な女性アラクネと、食料調達をする下男オリオンが棲んでいた。奇妙な住人と厳しい師匠の下で、オーブリイはたくましく変身の術の秘儀を学んでいく。そんな厳しい修行の中、オーブリイはリリスの不思議な魅力に惹かれ、彼女に恋をしてしまうのだが……。
というあらすじ。リリスやオリオン、アラクネという名前からたやすく想像できるように、彼らがどういう素性なのかが段々明らかになってきます。そしてその秘密を知ったときに、読者はグライレンドンの邪悪さに戦慄することになるのではないかと思います。それはまさに主人公オーブリイと一体化した感覚であり、この感覚こそがこの作品の最大の魅力なのではないかと思います。リリスとオーブリイの恋のゆくえがどうなるのか、またオーブリイは師グライレンドンを超えることができるのか、大きな波乱はありませんが、淡々と物語が進行していくのに、ページが止まらないというのは物語の力ではないかと思いました。ぼく自身、感情移入できるファンタジーとして、久々に堪能しました。シャロン・シンの作品が本の形で翻訳されるのは初めてで、紹介者に恵まれたなあと思いました。ぜひ多くの人たちに読まれて欲しいファンタジーです。