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読了。今まで読んだ小説の中でも10本の指の中に入るぐらいヘンな小説だった。著者のD・B・ワイズ自身がオタクで、巻末の著者インタビューを読むと彼がいかに日本通なのかがよくわかる。類似感を感じたのは『東京サッカーパンチ』(扶桑社ミステリ文庫)で、この手の小説が好きな人は多分読むと楽しい。ただ、悪の大臣はタカハシで、恥を感じるとハラキリするとか、そういうのはない(笑)。主人公が敬愛するレトロゲーム、ラッキー・ワンダー・ボーイの作者ウズマキ社(むしろ太秦だったらよかったのに!)の社長イタチ・アラキ(女性・ミステリアスな美貌をもつ)、副社長のマルフクなど、なんだかちょっと違う。
この小説自身、西洋人オタクが憧れるヘンな日本文化へのレスペクトとレトロゲームへの愛が込められているので読んでいて嫌悪感はない。ドンキー・コング、フロッガーなど実在のレトロゲームの生い立ちを紹介しつつ、その中に饒舌ともいえるオタク的哲学観を導入していくというスタイル。主人公のアダムはなんだかあやしいシナリオライターで、レトロゲームマニア。MIME(古いゲームをPC上で動かすことができるソフト)でたくさんのレトロゲーをやりこむ毎日。ところがMIMEで動かない幻のアーケードゲーム「ラッキー・ワンダー・ボーイ」に実は幻の第3ステージが存在するということを聞く。そのときにポータル社に再就職していた彼は、シナリオライターとして「ラッキー・ワンダー・ボーイ」の映画シナリオを担当したのだった。ますます「ラッキー純塔_ー・ボーイ」の世界にのめりこむ彼。現実と仮想の間を彷徨ううちに、彼はある解答を得るのだが…。
この小説で鍵になるのは架空の小説家ダフェイ・ジによる「凌遅」。刑罰によって生きながら百刻みの刑にさらされる女性を描いた短編なのだが、この話がちょうど「ラッキー・ワンダー・ボーイ」のスキゾ的なステージ2に対応しているため、断片になった品物=ばらばらになっていく肉体への対応など興味深い部分はある。小説のメインプロット自体は、ゲーオタな彼がキーとなる3人の美女との関わりを軸にして進行していく。一人目はポーランドからピックアップしてきた彼女アーニャ。一般人であるアーニャはアメリカに行きたいためにアダムを利用した形になるわけだが、当然彼の非社交性に愛想が尽きて別れる形に。二人目は社内恋愛に発展するグラフィックデザイナーのクーリオ。そして三人目は彼が敬愛するイタチ・アラキ。クーリオ(名前からクーリエを想像する)がイタチ・アラキの写真を彼に渡すことにより、アダムの世界が徐々に変容していくのがわかる。この構造に近い小説は多分ゲームブックで、一見関係ないようなアイテムが羅列されて、それがつながることやリプレイという形が導入されている部分はまさにゲームブック的かなぁと思った。
知人も言っていたけど、こりゃヘンな小説ですね。でもなんだか琴線に触れるものもあって、求道するということへの共感や作品中で語られるオタク論への共感もあったからかもしれない。万人にお勧めできる小説ではないけど、B級日本文化、レトロゲーが好きな人は読んでおいてもいいかも。

久々に読んだブラッドベリの長編作。頁を開いた途端、すでに10月の国の旅人になっている自分に気がつく。『二人がここにいる不思議』(新潮文庫)では、老いへの諦念などが含まれていて、ブラッドベリの魅力の一つである「永遠の少年」がくすんでいたように思えたのだが、この本では当時80歳だったブラットベリの中に潜む少年が生き生きと描き出されている。55年の歳月をかけて完成した本書は、ブラッドベリの人生の集大成ともいえるべきエッセンスが投入されており、彼の周囲にいた愛するものたち、自分自身を見事に闇や影の一族に投影して想いが込められている。
ナイトメア・ビフォア・クリスマスに出てくるような眷族たちを想定しつつ、人里はなれたアメリカのとある小高い丘にある一軒の屋敷にて、エジプトからやってきた<ひいが千回つくおばあちゃん>、人の心の中を自由に行き来できるちょっといたずら好きの魔女セシー、緑色の翼を持ち、空を悠々と滑空するアイナーおじさん、そして本書の語り手である偶然捨て子として彼らに養育されることになった生きた人間であるティモシー(ブラッドベリ本人が投影されている)たちの心温まり、やさしいまなざしに満ちた物語だ。
10月の国の住人たちを自分自身の一族に投影させて、愛を込めて書かれている。ブラッドベリの文章自体が名文(訳も素晴らしい)であることもあり、読者は一気に彼の世界に引き込まれていくことだろう。過去に読んだ10月に関する作品については、幼年期に感じる不安や不思議、そして不気味さに戦慄していたのだが、本書では人生を命いっぱい生きる意味をメッセージとして本書に込めている。ティモシーの目を通じて、いかにブラッドベリが色々な人達と出会って、彼らを愛してきたのか文章からひしひしと感じることができる。その愛を感じると同時に、彼の中の少年が闊達と動き回り、好奇心を旺盛に色々なものを探っていく。そのエネルギーと冒険心に読者は勇気付けられるはず。
216ページにある台詞がぼくにとってはとても印象的だった。ティモシーと<ひいが千回つくおばあちゃん>との会話。ちょっと長くなるけど引用しておく。「だから、みんなはしあわせなのかなって思うんだ。ぼくはとても悲しくなる。夜中に目がさめて、泣くこともある。だって、みんなはこれだけの時間、これだけの年月があるのに、そこから生まれるとってもしあわせなものがあんまりないみたいだから」「ああ、そうとも、<時>は重荷だ。わたしたちは知りすぎている、思い出が多すぎる。たしかに長く生きすぎた。いちばんいいのは、ティモシー、その新しい叡智のなかでお前の命を精一杯生き、あらゆる瞬間を楽しんで、これから何年も先に、身を横たえることだ、自分が人生のあらゆる瞬間、あらゆる時間、あらゆる年を満たしてきたこと、一族にこよなく愛されたことをさとって幸福な気分にひたることだ。(以下略)」
過去のブラッドベリと異なるのは、メメント・モリが念頭にあること。それを踏まえた上で、自分を取り巻く人達から愛されて、精一杯生きることの大切さを説く。ティモシーが彼らの仲間になることを拒んだのも、納得がいく。精一杯生きた上で、皆から愛され、塵へと帰っていくのであれば、こんなに素敵なことはないだろうと思う。少し読んでいて感じたのは、G・マルケスの『百年の孤独』(新潮社)っぽい部分もあったかなということ。だから好みだったのかもしれない。
チャールズ・アダムズの装丁も素敵。文庫版よりハードカバー版の方がカバーは素敵なのでお勧め。ただ文庫版は恩田陸の解説と中村融さんのさらなるあとがきがついているので、読むなら文庫版の方がお得かなと思う。思わず涙ぐんでしまうシーンも多くて、こういう読書ができることはまさに至福だと思う。