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Mar.11,2006 (Sat)

藤原正彦『国家の品格』(新潮新書)

国家の品格

 知人から借りて、2月中旬ごろに読み終えた本。数学者藤原正彦が「今の日本に一言物申す」という本なのだが、数学者を生業としている氏が「論理の応酬」のみで決まっていく社会の殺伐さを論理的に説明しているあたりが面白い。ぼく自身、欧米に留学して(かつ経済学という学問をやっている身として)、氏がこの本で言っている違和感を常々感じていた。ものごとを帰結を決定する際に、欧米の学問体系においては前提条件となる仮定が「実行者」によって選ばれ、論理によって物事の帰結が定まる。「実行者」の規範や前提条件は個々人によって異なり、その差異が意見の衝突を招いたり、最悪の場合戦争というイデオロギーのぶつかり合いになる。ところが同じ前提条件から出発したとしても、異なる結果を生み出すこともある。その例として、民主主義のロジックがナチスドイツを生み出したのは記憶に新しいことだと思う(民主主義が満たす要請となるいくつかの仮定をすべて満たすことができない、というアローの不完全性定理というものがある。この定理の帰結では、独裁制は決して排除されない)。

 特に経済学の中でもぼくが学んでいる新古典派(市場に任せていれば、すべてうまくいく)について藤原氏は痛切な批判を浴びせる。確かにカルヴァン派のロジックがそのまま受け継がれた(ウェーバーの『プロテスタンティズム…』を読むとよくわかる)学問体系という意味では、合理的な経済主体が最大化行動をすることによって、すべてがうまく行くことを約束し、そのことを奨励する体系だと思っている。しかし僕自身この学問体系を学んでいて、あくまでも学問体系は学問体系と思っていて、そのロジックをすべて現実経済の分析に利用しようとは思っていない。現実社会はもっと複雑で、様々な不完全性が存在しているからだ。ケインズ学派もあれば、色々なアプローチがある。ある学問体系の中でどのような切り口を利用するかは、自分なりに総合的に学んできたことの中にエッセンスを加え、わかりやすく説明するためのツールだと思っている。だからこそ、様々な学問が並立し、対話がなされているのだと思う。

 その中で危険性をはらむのは、現状を見ずに経済学のロジックだけで、相手に無理難題を押し付け、国の経済を崩壊させるケースが多々ある。最近やった『ダーウィンの悪夢』ではIMFのお偉いさんたちが「ヴィクトリア湖を中心にした産業に援助し、一定の効果をあげた」というインタビューのシーンがあったと記憶している。そこには前提となる仮定(産業を活発化させる)は正しいし、その帰結も得られたことと思う。しかし、その仮定を選ぶ際に現状を見据えた上での視点(これは藤原氏のいう情緒や形だとぼくは思う)を入れないで、論理だけで物事を進める結果ということだと思っている。

 伝統文化がある国から伝統文化がない国に来て、こちらでは(倫理的に)どんなに正しくない意見だとしても、「論理」が正しければ正当化される。論理的にある結論を導くためには、前提となる仮定がすべてである。そういう意味では前提となる仮定を選ぶ基準を選ぶことが重要となってくる。その前提を選ぶ上で大切になってくるのが、どれだけ色々な物事に触れて、身の回りにあることを素直に感じることができるか(そういう意味では、レイチェル・カーゾンのセンス・オブ・ワンダーっぽいわけだが)ということにつきる。時には自己の利益の追求だけでは測れない基準もあるということ。もし自己利益の追求だけになってしまったとしたら、きっと世界は盗賊国家(万人の万人による闘争)と化してしまうだろう。そこで、藤原氏のいう「情緒」が大切になってくるのだと思う。

 国家にはそれぞれの伝統文化や歴史があり、ひとつの基準のみで強制的に型にはめることへの危険性を最近のアメリカに対して特に感じている。氏はロジックとして数学基礎論のゲーデルの不完全性定理を引き合いに出し、現在の公理体系では真と偽を判断できないものがある、ということを本書でも様々な場所で利用している。日本の場合、それが「武士道」であったり、「八百の神々がおわしまする国」という公理体系なわけで、ひとつの公理体系によって統治される危険性を危惧する。オーウェルの『1984年』のような世界は訪れないとはいえないと思う。アメリカ型のスタンダードを押し付けていくことにより、国家の中にあるこころが崩壊していく危惧をぼく自身も感じている。

 全体として氏の意見には共感する部分が多く(常日頃感じていたことだし)、非常にお勧めしたい本なのだが、人によってはちょっとと思うかもしれない。情緒など、非論理的で人間的なものを論理的に説明しようとして、粗雑になっている部分があるからだ。これに関連して知人から送られてきた毎日新聞の記事を張っておく。数学的思考というのは色々な場面で利用できるということをわかりやすく説明しているので。

 http://www.mainichi-msn.co.jp/tokusyu/wide/archive/news/2006/03/20060308dde012040037000c.html


Mar.27,2006 (Mon)

イザベル・アジェンデ『神と野獣の都』(扶桑社ミステリ文庫)

神と野獣の都

 イザベル・アジェンデ『神と野獣の都』(扶桑社ミステリ文庫)を読み終えた。日本に帰国したときに、まさかアジェンデが文庫オリジナルで出版されるとは思いもよらず、ちょっと嬉しかった。それも扶桑社ミステリ文庫!これにはびっくりした。イザベル・アジェンデはペルー生まれのチリの作家(ヴェルデさんの指摘、ありがとうございました)で、代表作『精霊たちの家』(国書刊行会)などがあって、以前から気になっていたラテンアメリカ作家の一人だった。ということで、冬の鬱々したこの地で読むにはもってこいの話だと思ったので、早速手にとってみた。暑苦しいブラジルの密林の話で、『タリズマン』の密林を舞台にしたマジックリアリズム版といった感の強いお話。翻訳も読みやすくて、日本にいたらきっとすぐに読み終えることができたはずの一冊。

 闘病生活で愛する母が日に日に衰えていく姿を見て、苦しむ主人公のアレックス。看病生活に集中するため父親ジョンはアレックスを作家である祖母のケイトのところへと預けることに。そんな祖母のケイトは取材のためアマゾンに行くことになっており、アレックスもまたアマゾンへと強制的に同行することに。その取材の目的はアマゾンの密林の中に住むとされる巨大な人間型生物<野獣>の調査だった。自分が重要だと思っている尊大なルブラン教授のもと、彼らは調査に出向く。そこでアレックスが出会ったのは現地のインディオ、動物と会話が出来るナディアという少女だった。彼女と打ち解けた彼は、彼女を通じてアマゾンの密林に潜む不思議な存在に気がついていく。

 人間状況が変化するとここまでたくましくなれるのか?と思うのが正直な感想。アメリカで普通に生活していた少年がアマゾンの生活に慣れてたくましくなっていく様は、成長物語として楽しく読める。アレックスの物語として感情移入して読むのもいいのだが、ぼくが興味を持ったのは原住民の権利問題と西洋的価値観と原住民固有の価値観の差の部分だった。それこそ鉄器を持たないで生活する原住民たちは、文明化した人間を別の種族と思い接している。我々には普通な病気が、彼らにとっては致死的であるということも含めて、アジェンデはうまくそれを利用して、巨大な謎を構築することに成功している。まだまだ神秘的な謎が残るアマゾンが舞台なので、この物語で出てきたような「霧の人々」のような種族は存在するに違いないと思う。

 原住民の秘薬を用いたトランス状態が重要な役割を果たし、それがまさにマジックリアリズム的な感覚を喚起している。アレックスはジャガーであって、ナディアはタカになれるのは、自然と我々がいかにつながっているか、ということを示唆するものだったりする。何でも征服して、自分たちの思い通りにしていくという支配観では語りつくせない何かをアジェンデはこの本を通じて伝えたかったのだとぼくは思っている。当たり前のことなのだが、どの文化にも固有の価値があり、しっかりと守っていかなければいけないのだが、人間は経済原理だけで動くとその当たり前のことを忘れてしまうことが多い。経済学をやっていてよかったと思うのは、利潤最大化の原理を知りつつも、それだけが価値ではないということを知ることが大切なのではないかと思えることだったりする。

 この年頃の男の子や女の子が読んだら、きっとわくわくするだろうなぁと思える話。歳をすっかりとってしまったと思う今日この頃。