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Jコレ。黄色いカヴァーが他のJコレと違うので戸惑った。読み終えて感じたのは、スタニスワフ・レム的なSF世界が展開される。ロジックやはめ込み構造を持つ物語世界が構築され、あたかも[0,1]区間の中に読者が取り込まれた気分にさせられる。実際、小説は2つの章が20の節にグループ分けされ、ある章はある章と関連づいており、ある種紺野あきちか『フィニイ128のひみつ』(早川書房)のような、テキスト間で何か意味があることを捜索する旅に自分が出た気分になった。
ただぼくの中でこの小説は、レムやボルヘスのイメージと重なってしまっている。僕が思うに作者が相当レムに対してレスペクトを払っているということを感じさせられる作風で、大変興味深かった。巨大帯に添えられた神林長平氏の短評がいい得て妙で、確かにこの小説はオイラーの定理(指数と三角関数の関係のやつ)的でもある。つまり、一見関係ないと思われる関係がある方程式によってつながるという感覚を小説内で味わうことができる。文体は実験的であるとはいえ、ジョイス風ではなく、ややスラップスティックな感じも受ける。物語の大枠はコンピュータが自己進化し、人間を凌駕する巨大知性体という存在になって、より高位の存在に近づこうとする試みを反復の手法を利用して描いている。
文体は理系の佐藤哲也っぽくて、人によってはすごくつぼにはまる気がする。それとご本人が研究者ということで、ぼくが第一に思い出したのは早瀬耕『グリフォンズ・ガーデン』(早川書房)。この本でもやっぱり無限が取り扱われていて、なんとなく無限と有限性の取り扱いについての考え方の相違があって面白く感じた。この小説で、大変面白いとぼくが感じた部分は、「A to Zの定理」かな。定理とか系とか意外といい加減なように思えるのは、確かにと感じる部分はある。でも、ツェルメロとか時折、数学の定理が入っていたりして、何気に読者の知識レベルをチェックされている気分になる。
そういった意味では脳裏に巨大知性体の集合があって、それぞれ一応商集合によって分類されている感じで、系としては巨大なシステムとはいえ、分散系になっているという割と興味深い設定になっているのが面白い。その中で、さらなる上位構造を考え、入れ子構造によってある種、集合の増加列を考えて、無限の状況を作り出しているという感じがした。そのあたりは、巨大知性体のやりとりから見えてくる部分ではある。数学の素養が多少でもあると、さらに楽しめる小説だと思う。
ぼくはかなりげらげら笑って読んでしまったのだが、こういう佐藤哲也的レム的な世界はやっぱりいいなぁと思う。時の考え方についてはラテンアメリカ的ではあるかも。ある種ボルヘスやカルペンティエールを思い出させる部分がある。それと、ラストでの終わり方はぼくが以前から感じていた「小説を読む」ということについてのひとつの答えを提示しているような気がして、読み終えたあとに刺激を受けた気がした。ということで、飛浩隆さんの短評でいう「爆笑ソラリスジョーク集」お楽しみください。

類体論(抽象代数学の一分野)の発展に貢献した東大教授だった彌永昌吉先生の最後のエッセイ。大変素晴らしいエッセイで、 数学者の世界、数学者の20世紀と続けて読むと、彌永先生の交友関係、数学に対する真摯な態度などがよくわかる。彌永先生は100歳で鬼籍に入られたのだが、90歳代でも精力的にご活躍なされ、ガロアの著作の翻訳などをシュプリンガーフェアラーグ日本から出版されていた。
先生のエッセイを読んで感じたのは、当時の教育システムと一高(旧制東大教養学部)の雰囲気というのが、自由な気風を作り出して世界で活躍される先生方を輩出したかということを感じさせるもの。彌永先生自身がかなり裕福な家に育ち、中学の先生の教えから数学への道を目指したという流れもあり、優れた師、学友との出会いが彌永先生を数学者への道に進ませたということがよくわかる。 彌永先生は最終的に『解析概論』で有名な高木先生に師事し類体論の発展に貢献することになるのだが、彌永先生がご活躍された当時の日本の数学者のレベルは本当にすごかったといっても過言ではない。
この当時の数学者の方々は英語、ドイツ語、フランス語を自家薬籠中のものとして、海外の一流の学者、特にヒルベルトが健在のドイツに修行しに行く。そこで彌永先生は友人にも恵まれ、自分の数学能力を研鑽し、高木先生の類体論の完成に貢献することになる。このエッセイがユニークなのは彌永先生の家族について色々と語られていることもある。福沢諭吉とも縁が深く、生まれ育ちから彌永先生は、恵まれた環境にあったといえる。彌永先生の過去のエッセイはどちらかというと、数学者との交流に主眼を置いていたのに対し、このエッセイでは自分の生涯について綴られており、数学者ではないぼくも色々と感銘を受けた。
彌永先生は、首相になった福田赳夫氏と同期。福田氏との交友にも触れられている。彌永先生がフランス語を勉強するきっかけとなったのは、福田氏の影響だったという。そういった意味で、自分の人生の上で変化があるのは人との出会いにあるような気がする。これは全般的に言えることなのだが、現在は沢山の情報が溢れていて、リソースも豊富、何でもちょっとしたことで概略はわかる。しかしながら物事を突き詰める、ということになるとなかなかできなくなった理由は、情報の波におぼれたり、理論を理解するための時間が昔の倍かかっているという点にあると思う。情報アクセス、コピーなどについては大変充実した環境になったとはいえ、ぼくたちは何か失ったのかな?と思うときはある。便利さはぼくらの創造性を一部奪っているのかもしれない。

アンナ・カヴァンの本は軒並入手困難本が多く、色々な人に彼女の作品の素晴らしさを知ってもらいたかったので、今回はまとめてカヴァンの作品を紹介していみたいと思う。長編『愛の渇き』(サンリオSF文庫)は所持しているものの、まだ読んでいないので近いうちに読みたいと思う。
潔癖な世界を求めた彼女は、他人との距離感をつかむことができない。そしてその一方で孤独感に苛まれ、人を恋しがる。孤独からの脱出の手段が、彼女にとってはヘロインであり、そのため彼女自身はヘロイン依存症になってしまう。カヴァンにとってはバズーカ(注射針)は欠かせないものとなり、彼女を変革させる物体になる。ヘロインに依存しなければならなかった彼女は、自分が本来ありうる姿と潔癖さをむき出しにして、読者に彼女の自然の姿、あるいはイデアとしての彼女を提示する。そのイデアを象徴するのは白であり、白によって昇華され、理想像へと漸近的に近づいていく感覚をこの短編集を読んでいて感じた。
僕の中ではカヴァンの描く世界は、キリコの世界のような感じで、表情のない人形たちが灰色の世界を動き回る感じで 色彩をまったく感じることができない。彼女の作品世界は、まさにモノトーンだ。潔癖すぎる人間性のない人形たちが、静かに狂っていく感じだ。これは、未訳の短編集(一部翻訳がNW-SF社より出ている)であるアサイラム・ピースにおいても感じることだ。一見普通に見える世界も実はどこかで歪んでおり、自分がいる世界が狂気なのかそれとも正気なのか判断する基準点を歪ませていくことになる。それはまさに「まぼろしの市街戦」での心優しい精神病患者の人たちの仲間入りをした主人公とは逆で、この世界から脱出したい、けれども脱出できない閉塞感が充満しており、息苦しさだけが残る。脱出したけれども、必ず迎えがやってきて、再びもとの状況に戻ってしまう。それがアサイラム・ピースという短編集に凝縮されたエッセンスであって、あまりの衝撃に打ちのめされる人も少なくはないはずだと思う。
アサイラムピースは、The Birthmark(あざ)という短篇からはじまる。14歳のときに同級生になった冷徹な知性を持つ少女Hには薔薇のようなあざがあり、彼女の秘密を知ってしまったことでHは主人公を疎んじていく。その後Hとは音沙汰がなかったのだがが、主人公が大人になり、ある国を旅していたときに、とある観光地で鉄柵の中で閉じ込められた女性の姿を見てしまう。その女性は……。この短篇を読み終えてからすでにいやな予感は当たったのだが、徐々にパラノイア的様相の展開になっていく。「敵」という短篇では、やはり自分が敵によって破滅させられていく不可避な「閉塞感」を感じさせられるし、「終りはない」という最後の短篇は救いもない。
そして8篇のピースからなる「アサイラムピース」は、カヴァンの代表作といっても過言ではない、8つの精神病棟に関するお話がちりばめられている。若い男性だったり、若い人妻だったり、高貴な出の女性だったり、精神病棟で働く農家の娘だったりと、様々な角度から精神病棟にいる人間たちの心理状況を描く。8つの短篇に共通するのは「終りはない」ということであり、8つのパズルピースがつながったときにミクロ的なピースがマクロ的にあてはまり、見事に隙がなく完成する。当時の精神病棟の事情を考えれば、狂気に陥っていないのに入院させられる患者もいたりで、「気が狂う」ということがどういうことなのか考えさせられるのはいうまでもない。カヴァンが「アサイラム・ピース」で描写した8つの物語は、個々の短篇だけではなく、一つ一つの短篇が組み合わさることにより、「バズーカ」のような役割を果たし、読者に狂気を見せ付けることに成功する。我々の中に潜む狂気を、純化して提示したことがこの短編集の恐ろしいところだと僕は思う。そういった意味ではあまり精神的に弱い人は読まないほうがいいかもしれない。カヴァンという毒はあまりにも強いから。
Asylum Piece: And Other Stories (Peter Owen Modern Classic)
ジュリアとバズーカ
ゼラズニイのストーリー展開のスタイリッシュさは健在で、読み進めていて心地がいい。黒丸尚訳は、ゼラズニイのかっこいいストーリー展開と物語描写をうまうルビなどを利用して訳しており、読んでいてとにかくかっこいい、と思える作品だったのが収穫。「天使のアンジー」が苦闘してファミリーに敵対するスタイラーを殺し、自分のクローンを作り上げ、19の植民惑星を庇護する<翼(ウィング)>として存在していた。ところが<一族>たるクローンが何者かに殺されたことにより、一族のクローンたちが謎の犯人と対決するまでが第二部。ここまで読めばなぜタイトルが「われら顔を選ぶとき」なのかがよくわかります。
イタリア系のマフィアで、殺し屋として名を馳せた「天使のアンジー」はマンハッタンのクラブを出た際、何者かに狙撃され、そのまま絶命した。だが運よく冷凍処置が施された彼は、そのまま冷凍保存され、再び甦ったのは未来だった。ファミリーの子孫のポールはアンジーの殺しの腕を買って、彼にファミリーと対立するスタイナーの殺害を依頼する。苦難の末、スタイナーが居住する惑星アルヴォに到達したアンジェは、スタイナーの激しい抵抗をすり抜け、見事に彼を殺害する。そしてアンジェはスタイナーの研究成果を利用し、<ウィング・ヌル>となる基礎を身につけたのだが……。
第二部は<翼・19>にてクローンのファミリーが謎の人物に殺されていく、という展開でその謎解きのために、<ピン>が抜かれて記憶が転移していくという設定がとてもユニーク。だからこそクローンはネクサス(結節点)となるキーパーソンから記憶が転移していく。ただしそのためには<ピン>を抜かなければならず、人格がまるで憑依していくような形で物語が進行する。その部分はイタリアのマフィアに見られる<一族の絆>をSFという形で表現したゼラズニイならではの題材の選び方、だと思う。そして転移されていく人格が徐々に始祖に回帰していくうちに、雰囲気までも変わるという部分が個人的にはツボ。傑作とまではいわないけれども、ゼラズニイのかっこいい物語が読みたい人はぜひ読んで見て欲しい。ある種、フレンチノワール的で、映画を見ているような物語だったと思うのだが、ストーリーラインを追うのがやや難しいかも。
ダーコヴァーシリーズの中でも、貴族に生まれた少年たちの内面の葛藤を描いた傑作。ボリュームだけではなくて、読み終えた後に色々と考えさせられる一冊。ダーコヴァーシリーズで描かれる世界は現代社会のアナロジーとして物語が構築されているため、ブラッドリーが物語内で主張したかったことは何か、シリーズ内での位置づけはどうなっているのかなど、読み終えた後に深く考えてしまうことが多い。特にダーコヴァ人、地球人、地球人との混血、超能力者と非超能力者など、様々な階層内で軋轢と和合が交互に織り成され、物語は重層的に展開され、重みが加えられていく。デコレーションケーキのごとく、一筋縄ではいかない小説だ。
この物語の後半にあたる『オルドーンの剣』を読んだのが数年前のこと。特に本書は上下合わせて800ページ以上のボリュームがある本のため、気力があるときにしか読もうと思っていた。本書ではダーコヴァーに大きな大惨事をもたらした<シャーラの乱>に至る経緯が描かれている。本書ではルー・オルトン、そして若きダーコヴァーの摂政レジス・ハスターを軸に、力をもった少年たちの心の葛藤などを巻き込んで、物語は大変力強い展開となっていく。『オルドーンの剣』の前日譚はまさに、人々の欲望と憎悪、嫉妬の気持ちが投影され、シャーラのマトリクスの悲劇にとつながっていく。
もう少し詳しく書くと、本書ではハスター家のレジス(ラランとしてまだ覚醒していない)、ルー、そして男色家のダイアン卿など色々な人々がドラマを展開。因習やしきたりに捕らわれた旧世代と新世代の対立、少年たちの内面の葛藤、シャーラのマトリクスを利用して旧習を打ち砕こうとした若い世代が落ちいる悲劇を、情緒感溢れる文体で描いていくのが素晴らしい。ダーコヴァーの世界は色々な意味で興味深いので(現実社会のアナロジーとしても)、時折思い出したように読むとすごく刺激になる。本書は、少年たちの成長を描くと同時に、社会が変革していかないという停滞感との狭間で浮揚している感覚がある。つまり大きな力を操るためには常に何かしらの代償を伴う、ということなのだろう。それは、ルーの右手であったり、多くの命だったりするのだ。
大変面白いのだが、入手困難なのが残念。本書単品でも十分楽しめます。