『戦争の法』感想めも |
1975年、ある事件をきっかけにN***県に分離独立政府が誕生し、ソビエト連邦と友好条約が結ばれる。日本政府が混乱している隙にN県は独立し、新社会主義国家になってしまう。繊維工場を営んでいた父が反政府分子として新政府によって逮捕されることを恐れ、逃亡してしまい、その後母親が娼婦館として経営に携わった時に、主人公はある事件を契機に親友の千秋と一緒に逃げざるをえなくなる。そこで主人公は後にモーツァルト的な射撃の名手と褒められることになる千秋と一緒に山に入り、父親の仲介もあってゲリラの一群に加わる。そこで主人公が出会ったのは教養もあり、頭の切れる、オペラの好きなゲリラのリーダーである「伍長」であった……。
こんな感じに物語は展開される。佐藤亜紀の作品を読んだことのある方は御存知かと思うのですが、小気味いいテンポで展開される文章が実に気持ちがいいです。この小説自体は主人公の回想録という形式をとった物語ではないかと思います。そして主人公は当時、心に秘めていた想いを書き綴ることによって徹底的に整理しようとしているような印象を受けました。多感な時代の少年がいろいろな体験を通じて知りあった人々、そして心に残る出来事。戦争という極限の状態に置かれた主人公たちがあこがれたものは何であろうか?それはたぶん、強運の持ち主である一種スマートな英雄 であった「伍長」の存在であろう。主人公は伍長にほれ込み、彼から学べる知識を、そしてその生き方を盗み、真似しようとしたのではないかと思います。常に小説を携帯し、オペラをこよなく愛し、自分の戦略にほれ込む。何と素敵な人物であろうか。ある意味、卑近な例で申し訳ないが、孫子やクラウゼッツのような「ある面においてはものすごい才能を発揮するが、線が細い人物」を登場させることによって、悲惨であるはずの戦争を御伽の国の戦争に仕上げたのではないだろうか?スチームパンク的な雰囲気が漂っており、劇に登場する俳優のように登場人物が動き回るような痛快活劇のような小説ではないだろうか?と。
もう一つ感じたことはやはり、「滅びゆくものへの美」をある意味で追及したかったのではないかと思う。『戦争の法』のラストでは主人公の僕のその後が描かれるが、戦争を奪い取った主人公はただの人であり、抜け殻である。生き生きとしていたその当時の僕と比べ、比較の対象にならないくらい別人になっている。彼から失われた物は非常に大きく、彼を理解してくれる人はもういない。その意味で伍長が死んだところで物語を終わらせた方が、物語としてはすっきりすると思ったのであるが、逆にこのように対比させることで「鏡の国の戦争」「おとぎ話」の側面を強めようとしたのではないかと思いました。先日『バルタザールの遍歴』を読み終えましたが、著者の知識の深さにますます感激する次第です。他の作品もよんでみたいと思います。