『星兎』感想めも


 寮美千子『星兎』(パロル舎)読了。昔、ぼくたちが大切にしていた今思うと他愛も無いものたち、忘れ去られたものたちのことを思い出してしまった。ぼくたちが大人になる過程で捨ててきたもの、そして敢えて忘れてきたものたちの姿がこの『星兎』にはある。何もかもが輝いて見えた幼年時代、庭の片隅に転がっていたガラス玉を一日中眺めては、想像力の翼を働かせてぼくたちは「うさぎ」のようなものと戯れていたのかもしれない。大人になると薄れていく、不思議を感じる力と<魔法>の力を感じさせる一冊だ。

 ぼくがはじめてあいつと出会ったのは春の、風の強い日だった。ぼくはヴァイオリンのレッスンをさぼっていたんだ。そんなわけでぼくはヴァイオリンのレッスンが終わるまでの時間を潰すために、手持ち沙汰でうろうろしていたんだ。ヴァイオリンのケースを持って本屋で立ち読みしたり、マニアックな模型店を見てはぶらぶらしていたんだ。ぼくの欲しい分子模型セットを買うにはまったくお金が足りなかったんだけれど、いつものドーナッツを食べるお金はあった。そんな矢先、人込みの中に大きな耳をちょこんとたてたうさぎのぬいぐるみがぼくの方に近づいてくる!『やばい!』と思ったぼくはうさぎから逃れようとしたけれど、うさぎは最後のひとっとびをしてぼくの目の前に来てしまったんだ。それがぼくとあいつとの出会いだったんだ……。

 舞台はたぶん横浜をイメージしているのかなぁ?と思いつつ読んでしまいました。(途中でチャイナタウンが出てくるあたりと、山下公園的風景がぼくにそういう印象を与えたのでした。主人公の名前はユーリ、読んでいる方はご存知かと思うのですが、『ラジオスターレストラン』の主人公の少年と名前が一緒です。そう、この世界はあの幻想的四次元の世界の一つの姿だったのでした。別のユーリ少年が出会ったものはなんと、不思議の国のアリスもびっくりの人間くらいの大きさのあるうさぎだったのでした。アリスの場合、うさぎを追いかけて不思議の国へと向かうわけですが、少年はうさぎに出会った瞬間、「不思議」を体験することになるのです。

 この場合の不思議というのはぼくたちが失いつつある<魔法の力>のことです。魔法の力というのは、ぼくたちの心の中にある不思議を信じる力ということでしょうか。おとなになればなるほど、この不思議を信じる力は失われ、果てには失ってしまう人たちも多いのです。寮さんはその不思議の力を『星兎』を通じることによってぼくの心の中に呼び覚ましてくれたのでした。それは制度や慣習にとらわれないぼくがぼくであることの意味でもあります。そのことはうさぎがドーナッツの代金を支払うときに青く光った美しいクラブ・ソーダの王冠で支払おうとしたことに現れています。美味しいもの(美しいもの)に対してぼくたちが素敵だと思ったもので交換するということがいつからできなくなったのか、それは大人になる過程で失ってしまったものの一つなのでしょうか。それはうさぎがぽつりと言った台詞「ねえ、どうしてきれいなだけじゃだめなの?この世界では」の一言に凝縮されているように思えました。

 うさぎとユーリの心のふれあいは実にすがすがしい。そのふれあいを感じているだけで、自分の中にいるもう一人の幼い自分(魔法の力)がうさぎのことを夢想するのです。それは『銀河鉄道の夜』のカムパネラとジョパンニの魂の遍歴にも似ています。ぼくの中では「ケンタウル、露を降らせ!」という星祭りの世界が脳裏に浮かぶわけです。実際、夜店のシーンでは猥雑さと不思議さの乱れたカーニバルの楽しさが魔法の力を強める働きをしているように思えました。

 それはユーリが埠頭でバイオリンを弾く老人からバイオリンを受け取り、自分の音楽を弾いたことから世界は変わってくるわけです。自分の力で美しいものを奏でることに成功すること、それは大人への道でもあるわけです。大人への一歩を踏み出したとき、うさぎは彼と別れなければならないわけです。うさぎはうさぎだったのだが、結局大人になるということは理不尽なことを受け入れなければならないことでもあるわけです。自分が自分であることを埋没しなければならないときもあるだろう。しかしうさぎのことを思い出すことでぼくたちは<魔法の力>を思い出してもう一人の自分を呼び出すのだろう。

 子供と大人では感じることが多々違うかもしれないが、<魔法の力>を呼び出す一冊。オススメ。