自然な覚醒をして眩しさを堪えながら目を開くと、月並みと言って良い程真っ白な天井が眼前にあって、ああ、病院かと妙な安堵感と不安を得る。どうして病院だなんて分かったんだろう。ああ、そうか、薬品の匂いと診察する医師の声。
でも待て、何か、変だ…。Deuil-Side ASH- Ansteckung
「ああ、気がついた?」
テノールが優しく耳に入る。知らない声、と判断するのにそれでも数瞬必要だった。
「大丈夫?どこか調子の悪い所はない?気分は多分スッキリしてると思うけど、何処か痛かったりしない?」
声の主は水のポタポタと落ちる音と一緒に俺に優しくそう言った。確かに気分はひどくスッキリしていて、水の落ちる音も相手の声も、窓から差し込む陽射しも外から少しだけ聞こえる子供の声も、病状を告げる医師の声も、名前を呼ぶ看護婦の声も、全てが俺を楽しませる。しかし、異常に気付くのにそう時間は要らなかった。左腕の痛みが消えてて、だるさも解消されて、まるで身体はさっぱりしていた。
「…寝ぼけてるの?大丈夫?」
笑いを含んだ声の主が顔を覗き込んで来た。…あれ、どっかで会ったことないか、この人…。
すっと通った鼻筋、優し気に微笑みを刻む口元。日本人とは思えない、優しく深く澄んだ目は綺麗な赤色で、その瞳は時々長い灰白色の髪に隠れる。少し、鼻が上向き気味なのがひどく勿体無い。けど、知り合いにこんな奴はいなかったはず…。
「まだ少し熱があるのかもね」
その男は俺のおでこに乗っていたタオルを手にとってすぐ近くの洗面器に放り込むと、新しいタオルを乗せてくれた。
「…あの」
俺は少し間を置いてから話し掛けた。
「ここは、どこですか?俺、どうしてこんな所にいるんスか?」
なんだか頭の中がまとまらなくて敬語も出来ないような感じ。もう一つ、聞こうとしたところで彼が話し出す気配がしたので止めた。
「ここは…病院だよ。君が、倒れていた所を僕が見つけて…ここに連れて来た」
どこか躊躇うような口調で彼はおずおずと告げた。
「…あの、き、君は、どこの人?」
彼は決心したように俺に訪ねた。高々そんなことでそんな思いつめた顔をされたくないな…内心で苦笑して、俺は簡潔に答えた。
「東京」
その瞬間に彼の顔が凍り付いた。真剣な顔で、衝撃を受けたと言わんばかりの顔で、俺をまじまじと見つめた。一体全体、何が何やらさっぱりだ。
「…それより、あなたは、誰なんスか?」
彼はハッとしてかすかに頭を振って覗き込むのを止めた。俺は身体を起こしてようやく彼の全貌を見る。華奢で足が長い。白いサマーセ−ターとジーパンが良く似合っていた。
「僕は、ボライス」
耳馴れない異国の名前だった。更に問いかけようとすると、彼はあの、と大きな声を出した。
「…大きな声で、ごめん。あの、ね、君はその…あの…」
ひどく口籠るボライス。視線を彷徨わせ、落ち着かない様子で小さく首を巡らせたり振ったりして時折俺をちらりと見る。どこかで見たような仕種に何故か既視感を感じる。
「ここは、地球じゃなくてメルヘン王国という別次元、なんて…言われても信じないよね…」
俺は思わずぎょっとしてボライスを見つめてしまう。まさか、こいつ頭がおかしいのか?虚言癖でもあるんだろうか?…俺の思考が様々な意見を述べ続けるが最後に行きついたのは「ボライスはその類いの人間ではない」という至極当然の結果 だった。どうしても、そういった類いの病気のような症状を持ってる顔には見えない。
「わ、分かってるんだ、信じてもらえないだろうって、思ってたし…ただ、その、し、信じてもらえた方が、僕としては、その、助かる…んだけど…」
尻窄みに小さくなる声。何を言っているのかだんだん分からなくなる。
「き、聞くだけで良いよ、少し、僕の話を聞いて…」
俯いてしまって顔を上げないボライスに、俺は分かった、聞くよと、素っ気無い返事を返してしまった。それでもボライスはパッと顔を上げて、ほんの少し、表情を明るくしたて少し嬉しそうにしていたが、すぐに、気まずそうな顔をして、話し出した。
「今、メルヘン王国中央部、西部、東部、南部では大きな抗争が起きているんだ。それは、メルヘン王国と地球が和平条約を結ぶか、それに反対するかって、そういう争いで…えーと…地球の方でも、今は宇宙人とかと交流があるでしょう?」
「あるスね」
実際ある。最近では銀河惑星小旅行も可能になっているし、そういう類いの旅行ではアテンダントはたいてい宇宙人だ。政治の裏側で何かがあってそうなったらしいが一般 人の俺には知る由もない。
「それで、メルヘン王国もそれをやろうって、国王が言ったんだ。ええと、宇宙人連盟と地球連盟が和平条約を結んでるのは知ってるよね?」
「知ってるッス。互いの領地を行き来したり、商売とかもできる、けど戦争はしないって、アレでしょう?」
「ん、まあ、そういうこと。でもメルヘン王国の住民の中には人間を快く思っていない人も多くて、わざとそれが決裂するように人間を殺そうとしたり被害を与えたりしようとしてる奴等がいるんだ」
なんとなく、話の先が見えたので、俺は、まさかな…と、否定するような気持ちで聞いてみた。
「それで、まさか俺に噛み付いたあの犬がメルヘン王国の住人とか言うんじゃないスか?」
ボライスは目を見開いた。
「なんで分かったの…?」
反応も予測通り。まんまと言うか馬鹿らしいと言うか…
「そう、あれは犬じゃない。人狼だよ。人狼は、その気になれば、その、本当に人間を感染させて同じ人狼にしてしまえるんだ」
…ホラー小説の読み過ぎだと、言ってやりたかった。
「その、それで、き、君は…感染、してしまったんだ…血液検査も遺伝子検査ももう済んでるよ。実際、もう身体にも現れてしまってるし…」
馬鹿馬鹿しい。そう思って話を終わらせようと俺がベッドを降りると、ボライスはすぐ近くの白い壁…それは布だった…を引っ張った。
パラッとそれが床に落ち、その裏に鏡が姿を表していた。嘘だと、信じたかった。布を気にしていた俺が視線を上げると、ちょうど鏡に映る俺と目が合う。
鏡に映った俺は、確かに倒れた時と同じ服を着ていて、シャツに血痕も残っていて、俺だった。けど、髪の毛は緑色に染まっていて、肌は小麦色に変色していた。瞳は真っ赤に染まって、かろうじて瞳孔だけが黒く、鼻はどう見ても上向き気味になっていて、驚愕のあまり開いた口の端からは牙と言えそうな長く鋭い歯が先端を覗かせている。更に、耳は大きく横に張り出して、外側に茶色の短い毛がみっしりと生えていた。
「んなっ………」
間抜けな声が出てしまうが、気にもしていられなかった。思わず耳を引っ張り、肌を擦る。しかしそれは、特殊メイクでも質の悪い悪戯でもなく、実際に、俺の耳で、俺の肌だった。引っ張られた部分と擦った肌が熱と痛みを俺にきちんと伝えて来たからだ。
まさか、まさかこんなことがあるか。パッと見、まるで以前の俺ではない。
「だから、ちゃ、ちゃんと信じてほしか…ッ!?」
俺は思わずボライスに詰め寄って襟首をつかんで持ち上げていた。
「嘘だと言ってくれ…嘘だと…」
思わず心の中で呟き続けた言葉が口に出る。
ボライスは優しく俺の手を撫でて、苦し気に呻いた。
「…き、君の、保護…身、体変化に伴う…傷を、負っ…た精神へのケ、ア…を、任されて、ここに、来たんだ…頼むから、こ、この手…は…なし…」
保護…その言葉に手の力を緩め、ボライスを下に下ろす。ここでボライスを締めても、何も良いことは起きないということだ。
「…ケホっ」
ボライスは首に手を当てて、少し咽せた。俺が謝罪しながら背中をさすってやると、ボライスはにっこり微笑んだ。
「大丈夫…ごめんね、僕、もう少し頭良かったらもっと良い方法で教えてあげられたのに…」
呼吸を整えて、ボライスは続けた。
「君は、この抗争が始まってから初めての人間の被害者なんだ。それで、国王から僕は君が人狼の身体に十分慣れるまでの保護と指導…えーと、人狼の身体を知る為の先生みたいなものとして、派遣されたんだ。…だって、そのまま地球に行って調子悪くしたりしても困るし…その…」
つまり、ボライスも人狼なのだろうか。俺はじっくりとボライスを見たが俺のように張り出した耳はない。が、ふと耳の辺りを見ると、ひときわ長い髪が左右一総ずつ垂れていた。時々パタリと動く。これが耳らしい。
「しばらくは僕と共同生活ってことになるね」
まさか。俺は帰りたかった。まだバンドだって中途半端だし、家族だって心配してるに違いないし。
「俺、できれば帰りたいんスけど」
ボライスは首を横に振った。
「君、不注意で人に噛み付いてしまったらどうするの?万が一、感染させてしまって、責任の取り方なんて分からないでしょう?それに、きっと、苦労すると思うし、第一まだ交流のないメルヘン王国人を人間達がちゃんと受け入れてくれるとは思えないんだ。…人間と、メルヘン王国人の身体は似ているようで大きく違うからね」
…俺は今、家族や仲間にすら受け入れられないかも知れない、ボライスは暗にそう言っていた。眉をしかめている。…仕方がなかった。ボライスの言うことは最もで、確かなことだった。
「何時か、帰れるスか、俺…」
ボライスは俺の質問に分からない、と答えた。
「様子を見るしかないね…しばらくは僕と生活して、状況を見てから…かな。あの、もし…良ければ、名前を教えてほしいんだけど」
ボライスは小首をかしげた。歳は幾つなんだろうか。随分若いが、それでも派遣されて来たということは職につける歳で、それなりの信頼が置かれていると考えて良いのだろう。
俺は名前を答えようとして…少し、考えた。
「ああ、あの、嫌なら、何か適当に呼びやすいように呼ばせてもらうから、いいよ?」
ボライスがひどく慌てるが、言ってることがどうにも不躾だ。思わず笑みをこぼして、俺は名乗った。
「…アッシュ」
「アッシュ?」
俺は多きく頷いて、にっと、笑った。
「そう、俺、アッシュ、ッス」
「よろしくね、アッシュ」
ボライスはほんの少し、悲しそうに、でも、微笑んだ。
もう、こうなってしまった以上、割り切るしかないと思った。だから…過去の名前も、耳に入らない方が俺には楽だった。
Deuil-Side ASH- Ansteckung Ende