最初はあまり変化なんて感じなかった。そう、環境は大きく変わり、生活の変化もあったのになんとなくリアルじゃなくて。それが自分の体のへの違和感だと気付くのに随分時間を使ったと思ったけど、実は時間を使ってでもちゃんと知らなけりゃいけないことだらけだった。

Deuil-Side ASH-           Der erste Mond

 「ボライス」
 真向かいの部屋の扉の向こうにいる家の主に声を掛けると、内側から扉を明けて、何、と首を傾げて聞いて来た。
 「あの、この国って、言語的に、その、地球の日本語を使ってるんスか?」
 一瞬、ボライスはきょとんとして俺を見ていた。けれど、ああ、そうか…と言って本を一冊、棚から取り出した。それを俺の目の前で開いて見せる。
 「コレ、何語?」
 見れば英文、頭が痛くなるような長くて複雑な文章だった。
 「英語」
 「でしょう?」
 ボライスは本を机に置いてベッドにぽすっと座った。
 「この国は全体が地球によく似てるからね。言葉も多種多様なんだ。けど、意思疎通 の魔力を生まれつき誰でも持ってるんだ…一応。中には通じない人もいるんだけどね」
 けど、とボライスは本のページを軽く指でつついた。
 「あくまで喋ってる言葉だけだから、本とかは見ても言葉が変わったりしない。…置き手紙、読んだんだよね。あれは僕が日本語を勉強したから書けたもので、誰でも出来る事じゃないよ」
 なるほど…つまり全員が翻訳機を持ってると思えば良いわけだ。…まだ地球にそんなものはなかったし、マンガでしか見た事はないけど。
 「そうだね、基礎的な事から全部教えてあげなくちゃいけないみたいだ」
 …なんとなく、不安を感じた。

 それからは毎日の様にメルヘン王国という環境に驚きっぱなしだった。メルヘン王国には大体北部、南部、西部、東部に別 れていて、地球で語られる種族と大体一致した場所に似た種族が住んでいること、長い戦争があったこと、地球に行くことは実は容易にできるということ、メルヘン王国の住民は種族によって寿命に大きな違いがあること…。
  それから、自分の体にも随分驚かされた。

 「アッシュ?それ、料理に使うの?」
 ボライスがちょっと避難を含んだ口調で俺の手元の玉葱をじっと窺っていた。俺は台所でいくつかの野菜を洗って切って夕飯の材料にしているところだったが手を止めた。
 「そうッスけど…」
 俺の返答に、彼はあ、と小さく声を漏らして、今度は俺をじっと見る。さては好き嫌いか。
 「ねえ、その、玉葱さ…」
 「好き嫌いはよくないと思うッスよ?」
 む、とボライスは口を引き結ぶ。それから俺の手から皮がついたままの玉葱を引ったくった。
 「んなっ!ちょっと、返すッス!」
 手を伸ばすが胸に抱き込んでしまって頑として玉葱を離さない。
 「アッシュ、ちょっと、玉葱だけはダメだよ。僕だけじゃなく、アッシュにも!」
 珍しく声を荒げる。緊張しているのか耳がピリピリ震え、顔も普段と違ってちょっと険しい。ふと、視界に入ったものに気を取られる。ボライスの後ろにふわふわした固まりが蠢いている。ちょうどボライスの髪と同じ色のよく動く物体。なんとなく、尻尾なんだろうと思った。
 「じゃ、じゃあアッシュ!」
 彼は眉根を寄せたまま玉葱の皮を剥いて中身をはがして差し出した。
 「これ、食べてみなよっ!」
 …さすがに生は嫌なんだけどな…
 「ボライス、せめて簡単に料理してからにさせてくれッス…」
 俺は仕方なく玉葱抜きのシチューを料理する傍らで、玉葱をスライスして水に晒し、皿に盛っておかかを振り掛ける。最後にしょうゆドレッシングで味をつけて、それを一旦食卓に置く。それからシチューとハンバーグを作り終え、食卓についた。
 「…で、ボライス。なんで玉葱がダメなんスか?」
 そこでずっと玉葱を睨み付けているボライスに聞いてみる。とは言え、俺も自分の料理を邪魔されて心中穏やかではないのだが。ふざけた答えを出したら少し懲らしめてやろう。
 「…アッシュ、食べるの、薦めないよ」
 「それはボライスが嫌いだからッしょ?」
 その時ボライスの尻尾…やっぱり尻尾だったんだ…が威嚇する様に持ち上がる。穏やかな顔しかしないと思っていた彼の顔は、普段とは違って気迫が伺えた。先ほどの表情の険しさなど、今の表情に比べたらまだまだ穏やかだ。
 「違うよっ!アッシュ、僕らの体は玉葱を受け付けない!きっ、君は知らないだろうけど、玉 葱を多量に摂取すれば死ぬことだってあるんだよっ!」
 …理解できなかった。まさか玉葱程度で死ぬはずはない。よっぽどひどい玉葱へのアレルギーでもない限り、食ったぐらいじゃ死なないだろう。
 「し、食後に食べてみれば良いじゃないか…」
 俺の怪訝そうな表情に気付いてか、大人しくフォークをとって食べはじめる。もちろん玉 葱だけは一口も食べずに。俺は溜息をつきながらシチューに手をつけた。

 食後、デザートは作っていなかったので食器を先に片付ける。俺は玉葱を食べていたのだが、ボライスが唐突に取り上げ、自分でずっと持ってしまっている。…ったく、手に終えない。皿やまな板を洗い、水切り籠に並べて玉 葱サラダを持ったままソフェに座るのボライスの隣にゆっくり腰をおろした。一瞬ボライスがビクリとして離れるが、俺が別 段何もしないでいると落ち着いた様子でテレビに目を向けた。最近インディーズブームだとかポップス革命が起きてるだとか、政治家の批評だとか、地球の話題がニュースとして流れていく。ニュースを見ている時の彼は興味津々で、俺にもよく地球の話を聞こうとするんだが、今日はたまにこっちを窺うだけだった。

 それから幾分時間が経ったころ、俺は何となく不快感を覚えていた。食べ過ぎ?そんなことを考えている内にも気分は悪化していく。気持ち悪い。胃の中がムカムカして…
 とうとう我慢できずに俺はトイレに駆け込んだ。少し前に口に入れた物が胃液と一緒に逆流し、思いきり便器の中にぶちまけた。
 「う…ぇえ…っ…」
 頭がくらくらする。体も何故かだるい…。
 吐瀉物を流して洗面所で口をゆすぎ、残っていた分を口から出しきる。胃の中は空っぽのはずなのに気分は最悪。
 「だから、言ったんだよ…」
 ボライスが泣きそうな顔でそこに立っていた。タオルを持っていて、俺に差し出す。
 「玉葱、犬とかが食べると食中毒を起こすんだ…人狼も、おんなじなんだよ…」
 …まあ、先に説明されても信じていなかっただろうから、自業自得…。ボライスに従っておけばよかったと今さら後悔した。
 結局、胃薬を飲むまでムカムカが落ち着くことはなかった。

 犬に近い性質。俺はまだ自分の体を理解できていなかった。

  その日、俺はそわそわしていてどうにも落ち着けず、部屋をうろうろしてみたり、コーヒーを飲んだりして落ち着こうとしていたが、落ち着くことはできなかった。一日中そわそわそわそわ。自分でも変だと思う位 に。
 「アッシュ、どうしたの?」
 ボライスが声をかけてくる。見たところそわそわなどしていないし、穏やかに微笑む表情もそのままだ。
 「な、なんか落ち着かないッスよ。そわそわしちゃって…全然座ってられないくらい」
 実際に何度座ろうとしても何となく立ち上がってしまう上、もう一度座ろうとするのにひどく時間がかかる。一体何がそんなに気になっているのか、自分にも分からないのに。
 「そう?なんでだろうね…」
 ふと、ボライスが俯く様に考え込み、すぐに顔をあげた。
 「アッシュ、満月だよ」
 「満月…?」
 すぐに、このそわそわがどうしてなのか 何となくではあったけど、納得がいった。きっと、血が騒いで落ち着かないのだろうと。
 「…怖いの?」
 「…え…」
 気がつけば耳を思いきり伏せてしまっていることに気付く。顔も大分強張っていた。
 ふふ、とボライスが微笑んだ。
 「大丈夫。僕の言う通りにすれば、君が考えてるようなことにはならない」
 その手が俺の耳の後ろを撫でる。もっとそうしていてて欲しい。俺は耳をボライスの方に向けた。甘えん坊、なんてボライスが呟いたけど、ボライスがそうしてくれてると、何となく、そわそわが落ち着いた。
  少しずつ、恐怖心も消える。俺はいつか読んだ本の様に、いつか見た映画の様に、自我を失ってしまうのではと、心底から怯えた。知らない内に誰かを襲って食らって殺すなんて、絶対に嫌だ。
 でも。ボライスはそんなことにはならないと否定してくれた。その手で不安を拭ってくれた。それだけで十分、俺は救われた気がした。

 数時間の後に完全な球の形の月が空に輝き出した。
 「落ち着いてアッシュ、いい?」
 ボライスにソファに座らされて、どうにか落ち着こうと努力するけど無理だった。
 「アッシュ…」
 肩にボライスの手が乗って、俺の体をソファに沈ませる。思わず肩を押さえる手を払おうとしてしまうと、彼は一層手に力を込めた。
 「大丈夫だから。ちょっと目を閉じて…深呼吸して…そのまま…」
 心音が腹から聞こえて、如何に自分が恐れているかを否応なく感じさせられる。その反面 、何かむず痒い感覚があって、原因が分からない上、手が届かなくて 酷くもどかしい思いをしていた。
 …目をつぶれば月は見えないはずなのに、その存在を強く感じる。まるで月に音や声、匂いなんかがが存在するみたいに、様々な五感を伝わって脳裏に月がイメ−ジされた。

  地球と同じ、青ざめた色の月。

 「アッシュ、もう、大丈夫だよ…」
 ボライスがそっと頭に触れた。薄ら目をあけると、ボライスが笑っていた。けど、何か違和感があって、思わず周辺を見回す。別 に何か変化があるわけではない。目をつぶる前と同じ光景のはずなのに。
 ふと、足に絡み付く布の存在を感じた。取り払おうとして初めて違和感の正体に気付く。
 伸ばした手は俺のものではなく、毛皮に覆われてよくよく見ると犬の前足に似た形をしていた。布が絡み付く足も、実際には後ろ足とでも言いたくなるような変化をしていて、布…服から這い出す時には尻尾を見つけた。
 ふっ、と口から息を漏らすと、顔の随分先にある牙と、その上にある鼻を確認できた。
 ソファから降りればボライスの顔がずっと高い位置に見える。
 「ビックリしたよね…ごめん」
 しっかりと俺の体を抱き締める腕。それはちゃんと人のそれの形をしていた。
 「…君にはどうでも良いかも知れないけど…良い毛並みでよかったね。これで毛並みが荒かったらちょっと悲惨だよ」
 わさわさと、脇腹辺りの毛を逆なでされる。それも気持ちが良い。
 ボライスは狼にはならないのだろうか。
 疑問を口に出そうとして、思いとどまった。この姿で、喋れるのだろうか。まだ鏡も見ていないが、この様子だと狼そのものの姿になっているのだろう。
 しかし、疑問を投げかける前にボライスが口を開いた。
 「…ごめん、僕も限界みたい…」
 ボライスの腕から力が抜けて、それが床に着く頃には鈎爪の生えた前足に変わっている。極々短い時間で、シャツとズボンの中から這い出そうと格闘する青味掛かった銀色の犬を目撃した。それはどう控えめに見ても狼とは言い難く、毛足の長いその姿にはペットショップで見覚えがあるものだった。
 それは確実に「犬」で、狼じゃなかった。
 「…どうしたの、アッシュ?」
 ボライスは、その姿になっても人懐っこい笑みを浮かべる。まだ頭にシャツを被っていた。
 「なんでもないッス」
 喉から発せられるのは犬の声。けれど、意志はちゃんと繋がっていた。
 「明日の日の出には元に戻れるから。あんまり心配しないでね?」
 心無しか浮ついた声のボライス。俺が分かったと返事をするなり、じゃあっ、と嬉しそうに飛び跳ねた。
 「街に出よう、さあ!」
 返事をする間も無く勝手に走り出す。嬉々として跳ね回るように走るその後ろ姿に、バンドのメンバーの飼っていたラブラドールレトリーバーの姿が重なる。風になびく尻尾。
 俺はそれを追い掛けて街に出る。不思議と、四本の足が絡むことは無かった。

 

Deuil-Side ASH- Der erste Mond Ende

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