新しいことが必要な訳じゃなかった。でも今のままが嫌で仕方なかった。花が咲いては枯れ咲いては枯れそれをもう何回か繰り替えした。恐ろしいほどに月日は遠くなり俺はいつまでもアッシュのままで解決策なんて…
見つからなかった。
そして、賽を振ったのは、春だった。
Deuil-Side ASH- Der Tag Trennung war ein voller Mond
いつもと同じ日が始まる。
それは、ただただ繰り替えされた三年という月日だ。最初の一年半年は俺にとっては自分の体に慣れる為のモノであり、また、同じものに恐怖と嫌悪と妥協をする日々だった。俺には何も出来ないに等しい状況が続いていたけれど、去年の暮れに、ついに地球との行き来が完全に可能となり、文明は急スピ−ドで追いついていく。俺は、帰りたいけれど、帰りたくなかった。
誰にも言わなかった。自分の姿が如何に人間離れしてしまったかを。
誰にも言えなかった。俺が狼になるとき、どんな容貌を呈しているかなんて。恐ろしい、おぞましい、醜い、穢らわしい、浅ましくて、醜悪な…
正に 化け物。
受け入れられてしまう、受け入れてくれる場所を求めてしまう。
拒絶されるのが恐くて、俺は、折角帰れるのに、ずっと、この、国に、甘えてる…「アッシュ?」
ボライスは俺が最近考え込んでるのをひどく困った顔で覗き込む。でも、俺は笑うから、多分気付いてない。
板挟みの感情はいつまでもまとまらずに俺の腹の中をのたうち回ってた。だから俺は、ついつい町中を出歩いて、自分がまだ人間に近いことを確認したがってしまう。
でも、誰も自分が人間に近い方がいいなんて思ってない。そんな町中でも、俺は…やっぱり、心のどこかで、比べてる。自分と周りを。「アッシュ」
聞きなれた声にはいつもとは違う懸念が含まれる。俺は普通にしようと必死だった。「なんスか?」
「あの…その…」
ボライスは口籠って、俯く。赤い瞳は伏せられて、俺の顔を見ていない。
「ううん、なんでもない」
歯切れの悪さは最大級だった。泣きそうな顔で笑って自己完結にしたのに、何かを求めたような顔。俺に何を求めてる?
「ボライス、言いたいことはちゃんと言うッスよ」
一発デコピンをお見舞いすると
「な、なんでもないって、本当!」
首を振って否定する。耳がパタパタと跳ねるが、また消沈したように落ちる。
「…明日、満月だね」
「ああ、そうッスね」
そういえば、少し体がむず痒い。この三年で、俺はどうすれば少しは落ち着いてられるかを知った。それは大きな前進だとは思う。でも…満月は恐い。まだ何も起こってはないけれど。
「うん…だから、お菓子を作ろうよ。アッシュ、地球のお菓子、作れるんでしょう?」
ボライスは自分が口にした地球、という言葉を噛み締めるように、地球のお菓子、と二三回繰り返し呟いていた。ボライスからこうしたリクエストは珍しかったので、俺は快く承諾して、早速、男二人が作るには可愛い過ぎであろう小さなチョコロールパンを作り始めた。三つずつ袋につめて、明日の準備。そのまま投げたら食べられないから、パン屋で紙袋を幾つか貰ってきた。おばちゃんはいつも俺におまけしてくれる。あそこのおばちゃんは、でも、手が六本ある。
ようやく 詰め終わった頃だった。
「アッシュ、君さ、そ、その…帰らないの?」
切り出したかった一言は、今の俺には、答えられないものだった。迷いが答えを出すことを許さない。
「…ううん、なんでも、ない…ごめん、もう寝るよ」
ボライスはそそくさと階段を駆け上がると、一言だけ挨拶をして、それから扉を閉め切った。
俺は、手足が震えてしまって、思わず跪いていた。だって、帰りたくないだなんて、俺は、どうかしてる。 あんなに、帰りたかった、誤魔化してた気持ちが、今になって、嘘になって、ごまかしだったはずの気持ちが本当になって、おかしい。けれど…けれども。満月の夜は、やっぱり、少しは落ち着かないもんで、俺はお菓子を準備しながらやることを捜しまわってた。そういえば、ボライスが部屋に籠っている。別 段落ち着いている訳でもないだろうに。昼食のあとはずっと、部屋の鍵が閉められている。
もうすぐ、満月は昇るのに。祭りが始まって、俺は自分の部屋の窓からあるだけ袋をばらまいた。わっと群がるお菓子を求める人々。
… 実は、俺とボライスのお菓子は旨いと評判なんだ。満月の次の日に、コソコソと、礼を言いに来る人が何人かいる。その人達は、おれが何処から来たかを知っているから、あまりなれ合わない人々の中で暮らす、人なつこい種類の少数人が、嬉しそうに近寄ってくるのだ。お菓子を捲き終わっても、ボライスは出てこない。
「ボライス?」
ノックするが反応がない。
「ボライス、出て来るッスよ、ねえ!」
呼びかけども音一つもない。
「入っちゃうッスよ?」
鍵なんて、意味がないから。破砕音と一緒に部屋になだれ込む。
ボライスが真っ青な顔で横たわっていた。
「ボライス!」
ボライスは力無く、微笑んだ。
「ア…シュ」
息がまともに出来てない。浅くて短い。何度も何度もゼエゼエと俺を呼びながら笑う。
「ボライス!ボライス、どうしたスか!?」
答えないボライス。その代わりに、デスクの上を指差した。
そこには封書が一つ。白い封筒の中に白い便せんのが入っていた。
ボライスは何度も頷きながら、だんだん、呼吸の間隔を広くしていく。封書を読め、ということらしかった。
広げた便せんには、日本語で、几帳面に書かれた文字が並んでいた。アッシュ、今晩僕がいなくて、もしくは、今横たわっていて、
驚いたと思う。
今日は僕の命日だよ。
…アッシュ、帰らなくても、君は地球に居た方がいいよ。
だって、アッシュはいつも、地球のことを考えてる。
怖がらなくても平気だよ。大丈夫だから、帰ってごらん。
僕がお願いしたいのは、それだけ。
じゃあ、またね
生まれ変わったら、会いに行けるといいな子供じみた迷信で締めくくられた手紙を読み終わる頃、ボライスはほんの少し胸を上下させるだけになっていた。植物人間のように、小さな小さな呼吸。
「ボライス…」
ほんの少し、耳が動く。僅かに、微笑する。微かに動くが、錯角だったかも知れない。
「ボライス…またッスね、絶対、会おうスね…」
思わず躯をかき抱いた。刹那、ボライスの体は一匹の大型犬に変貌し、そして小さくなった。彼は一匹の子犬になった。
そして、まるで俺のことなんか見ていないように、外に飛び出していった。
「…ボライス…」
空虚な空間に声が響く。そこにある洋服や筆跡や写真やベッドや…彼のものが、遺品となった。
「いい天気ッスねぇ〜」
ぼんやり呟く。翌日は晴天で、俺は洗濯物を干していた。
明日には家を出よう。一度王様に会って話したら、地球に帰ろう。
ボライスは俺にそれを望んだから。
俺は、地球に帰ったら世界中を旅しよう。料理を知って、自分流のレシピを作って、それから…ドラムも、また始めたいな。俺は地球が、突然、恋しい気がしてきた。
Deuil-Side ASH- Der Tag Trennung war ein voller Mond Ende