月が照らし出す場所で
う
三人は再生まれたBorn from the fullmoon
アッシュは意識を取り戻すと、少しだけ自分の身体に雪が積もってるのを感じた。軽く身体を揺すって振り落とすと、アッシュは頭を振った。何が起こったかも思い出せない輪郭のない記憶の中で、ほんの少しだけ見えるのはユーリの叫ぶ顔だった。
「…そうだ、ユーリ!スマイル!」
不意に走り出す。他のことはお構い無しに無我夢中で走る。廃虚のような、所々に壁と柱と天井が残る建造物の中を、何か、勘の様なものを頼りにアッシュは走った。どれくらい走ったか、廊下のような場所で華奢な人陰を見つけた。背格好や髪型の様子でアッシュはユ−リと判断する。しかしアッシュはおかしなことに気付く。ユーリに近付いて行くが、まるで、ユーリの背が何倍も大きく見えるのだ。
ユーリは廊下の外を眺めている様だった。
「ユーリ」
アッシュが呼ぶと、ユーリは振り返り、目線を落としてアッシュを見た。
「…迷い込んだのか?」
クス、とユーリは小さく笑って、アッシュを抱き上げた。
「ユ−リが大きいんじゃない…」
アッシュは思わず小さく鳴いていた。気がつかなかったのは身体の異変だった。抱き上げられて見えた自分の手足は、自分の知っている手足ではなくて、暖かな毛並みに包まれた獣のそれだった。
「なあ、アッシュとスマイル…子供を二人見なかった?」
ユーリは暖を取るようにアッシュを抱きしめた。ユ−リの手はひどく冷たい。気付いてほしいが為にアッシュがユーリの顔を見上げると、赤い瞳とぶつかった。今までのユーリの青い瞳ではない。それに、髪の毛や肌がほとんど白に近い色に変色して、月明かりを白く弾いていた。
「探さないと…こんなに寒い中でいたら、凍死するかも…」
手伝ってくれよ、とユーリはアッシュの頭を撫でた。微笑んだユ−リの口元に、小さなきらめきが見えた。それは、本来なら犬歯がある所に生えていて…
「怖がらないで、噛み付きやしないから」
確認しようと動いたアッシュは、殊更強くユ−リに抱き締められて理解する。あれは牙なのだと。伏せられた瞳にどんな色が浮かんでいるのかはアッシュにも判らない。鋭敏な鼻は、塩と水分が混ざった匂いを捕らえたが、ユーリはそのまま歩き出した。途中何度もアッシュの身体を撫でながらスマイルと、今手の中にいる獣の名前を何度も呼んだ。「…あ」
ユーリが立ち止まる。まだかろうじて部屋の形を保った場所で、包みを発見したからだ。
アッシュは少し強引にユ−リの手からおりると、包みを掘り起こした。各自が持っていた鞄や他の所持品も現れたが、包みは何故か九つ見つかった。
「…皆でな、お揃い、とか言ったら、面白いかと思ったんだ」
ユーリは包みを一つ広げて笑った。そこにはコートが入っていた。黒いコ−トを羽織ったユ−リが、アッシュにはユーリ自身の白さに相まって余計に寒そうに見えた。
「少し待っててくれない?」
ユーリは包みの袋を一つ一つ丁寧に開き始めた。アッシュは、邪魔をしないように部屋の外で雪を踏みしめていた。「わんちゃん」
不意に耳もとで囁かれて、アッシュは飛び上がった。しかし周りを確認しても誰もいない。ところがアッシュのすぐ傍まで足跡が続いているのだ。
「わんちゃん、僕が見える?」
すっと、衣擦れの音がした。そこに誰かいるのに、見えないのだ。
「少しだけじっとしてて。僕はほら、ここにいるよ…」
アッシュはようやくその声が誰のものだか理解した。頭を撫でる冷たい何か、そしてそこにある足跡。
「スマイル」
呼んだつもりだったが鳴き声にしかならなかった。
「頭の良いわんちゃんだね」
スマイルらしい見えない何かは立ち上がった様だった。
「わんちゃん、ユーリを…あの人呼んで来てくれないかな」
いきなりじゃビックリしちゃうでしょう?と、笑い声を含んだ声。けれどどこか落胆か何か、沈んだものが混ざっているようだった。アッシュは一声鳴いてから、ユーリの傍に寄った。
「ユーリ、ユーリ!」
鳴いて軽く袖を噛んで引く。あくまで引きちぎらないように軽く。
「どうした?」
ユーリは引かれるままに立ち上がった。アッシュが先に進んでは振り返って、スマイルの居場所へと先導する。ユーリは不思議そうにその後に続いた。
「何があるんだ?」
丁度スマイルの前に来たところで、ユーリが立ち止まった。
「ユーリ」
スマイルがユーリを呼ぶ。
「スマイル!?」
ユーリはきょろきょろと見回すが、スマイルの姿は確認出来ず、うろたえた。
「ユーリ、ここ。こっちだよ」
不意にアッシュの身体が持ち上がり、空中にブラリと浮いたような姿勢になる。ユーリはひどく驚いて一瞬後ずさったが、すぐにアッシュのすぐ後ろを探り、スマイルの腕を探した。
「スマイル、ここが、腕だな?」
「そうだよ」
更にその上をユーリの手が探っていく。
「ここが、顔か?」
「そうだよ、あと右手が少しずれたら口に入っちゃう」
スマイルはクスクスと笑った。
「…見えないな…どうしたんだ?」
ユーリは悲し気に眉を寄せて尋ねた。
「…わかんない、気付いたらもう、こんなだったし」
それより、ユーリは?スマイルはアッシュを下に下ろした。
「僕もあんまり、良く分からないんだ…」
何かが刺さった場所に手を這わすが、傷一つないのか痛みも感じなかった。
「ユーリ、包み紙を開けてたの?」
スマイルはユーリの後ろに見える散らばった紙を見たらしい。
「ああ、コートと、帽子と、イヤマフがあったよ」
一着は僕が着てる、と腕を広げてみせる。アッシュは包み紙の中身を見る為に部屋の中に駆け込んだ。ユーリとスマイルもその後に続く。
「アッシュは何処に?見つからないの?」
スマイルは帽子を一つ拾い上げた。ニットのそれは暖かそうで、ユーリも一つを手に取ってかぶった。アッシュは自分が用意した帽子を二人が手にしているのを、少し満足そうに眺めた。スマイルはコートとイヤマフも一つずつ身につける。そうすると、どうにかスマイルの場所は確認できるのだ。
「ずっと探しているんだ…」
ユーリはぽつっと、呟く。
「ユーリ、スマイル!俺はここに居るよ!」
思わず吠えるが二人の耳にはそうは聞こえないらしい。おいで、とユーリが腕を広げた。アッシュは途方にくれながらそこに入り込む。どうすれば分かってもらえるか、アッシュは思考を巡らすが分からなかった。
ユーリの手は何度も頭を撫でた。と、その時だった。アッシュは身震いした。ほんの少し、身体に妙なけだるさと苦痛を感じる。ペタリと身体を伏せるとユーリが心配そうに声を掛けた。途端、アッシュの身体少し大きくなる。前足が徐々に手に変わり、後足が足に変わった。何時の間にか、尻尾が身体に吸い込まれ、頭蓋骨ごと顔の形が変化する。数秒の間に、そこにはアッシュによく似た少年が裸でうずくまっていた。
「アッシュ!」
ユーリが驚きの声を上げ、スマイルは咄嗟にコートをアッシュの身体に着せ掛けた。
アッシュは小さく震えながら顔を上げた。
「ユーリ、スマイル…」
確かめるように、ゆっくりとひとつひとつの音をハッキリと発音する。
「アッシュ、アッシュだったんだ…ごめん、気がつかなかった…」
ユーリとスマイルに抱き締められて安堵感に思わず涙を流した。
「…アッシュ、耳が…」
スマイルが軽く耳を引っ張る。確かに耳が獣の時の姿と変わらない。ユーリは頭を撫でながら、髪の色も、と呟く。アッシュの髪は若草を思わせる緑色になっていた。そして、瞳もまた、ユーリと同じ赤になっていたのだ。
「生きてるだけでも十分だよ…アッシュは全身大火傷のはずだったんだ」
ユーリが、アッシュがいったいどんな目に合ったかを話すと、スマイルは無事でよかったと安堵の息を漏らし、アッシュは、自分の手首を眺めた。言われたような傷はない。けれど、確かに何かから逃れようとしていた、その感情だけが、まるで中身の分からない悪夢の様に鮮やかな恐怖を心に残した。
「とにかく…どうにか山小屋か町にだけは行きたいな…」
アッシュは裸だし、とユーリは笑った。アッシュはむ、と口をとがらせスマイルは笑う。
「俺、さっきまでのがよかったのかな…」
それがいけなかったのかも知れない。途端、アッシュの身体はコートの中に埋もれた。また先ほどの姿に変わってしまったのだ。
「間抜けだなアッシュ」
ユーリが呆れてその身体を抱き上げる。スマイルはコ−トを拾って畳んだ。
「ともかく、行こうか…」
ユーリを先頭にして、二人と一匹は廃虚の出口を探し、そこから山の斜面 らしい場所を登り始めた。